いよいよ雪の季節の到来です。今週の初めに社用車のタイヤをすべて冬用に変えました。さかのぼること2週間前には社員用の駐車場に消雪ホースがしっかりと準備されていました。これでいつ初雪があっても慌てることはありません。「いつ初雪が降るかとやきもきするよりも、早く来るものが来た方がかえって落ち着く」と豪雪地帯の人が話していました。今冬は大雪になりそうな予報も出ています。
さて、今年もあと1か月と少し。本当に時間が過ぎるのがあっという間です。もしかして時計の進み方は昔より早くなっていない?「相対性理論」とはこういうことだったの??などと、浅い知識で考えを巡らせるのも毎年この時期の恒例です。
振り返ってみれば、わが社にとって今年は大きな変化の1年でした。昨年来社員の入れ替わりが続いていることはこれまでにも書いてきたとおりです。定年退職も含めて、結局1年で5人の社員が去っていきました。それぞれに事情も言い分もあるでしょう。彼らの希望に応えきれなかったわが社にも大きな責任はあると思います。しかしですよ・・・あの「岡部キンさん」という大黒柱が工場にいるときには、絶対に口にできなかった、間違っても態度に表わせなかった『言動』が、彼女の退職後あちこちからくすぶるようになりました。彼女の在職中は、60年余に亘ってあらゆるヤスリの目立ての経験をし、ヤスリのすべてを熟知している熟練職人への敬意や緊張が誰にもありました。退職前の岡部さんは自分が年を取っていることへの遠慮から、聞かれない限り職人たちの仕事に口を出すことはありませんでした。ただし彼らの仕事ぶりを心から褒めることは惜しみませんでした。工場は穏やかに、よい緊張感に包まれていました。しかし、大黒柱がいなくなったとたん・・・。いまさらながらに「岡部キンさん」という人の偉大さを噛みしめています。
「捨てる神あれば拾う神あり」で、その後入れ替えのように5人の新人社員が入社してくれました。ただ、あまりにも変化が急で大きかったので技術の引継ぎには苦労しています。前に目立ての仕事は「一国一城の主のようなもの」と書きました。目立ての技術さえあれば自分の裁量で仕事が完結できるからです。しかし技術を持たない新人達が城にこもっていたのでは全く仕事を覚えることができません。さてどうなったと思いますか?職種を超えて、社員たちが疑問や問題点を相談し合い意見を出し合うようになりました。職人同士に横のつながりができたのです。一人一人の目指す方向がマチマチだった今までの柄沢ヤスリにはなかった光景でした。正直を申せば、新人たちが目立てしたヤスリへのクレームは少なからずあることも事実です。彼らも今自信を失いかけています。しかし、他の社員がその解決に一緒に知恵を絞ってくれています。大勢の社員が入れ替わったことの変化よりも、問題解決を皆でできる協力体制が柄沢ヤスリに出来上がったことの方がどれだけ大きな変化であったか。今新人たちは技術面で一番苦しい時です。今年1年の最大の収穫である「体制の変化」がきっと新人たちに味方してくれることを信じたいと思います。(R記)
ようやく秋がやってきました。当地の本日の最高気温は18℃。ついさっき「ダウンを着て自転車に乗っている人を見た!!」と社員が大騒ぎをしていました。一昨日までは冷房を付けていたというのに秋は本当に突然やってきます。こんな風に急に季節が変わると、あの酷暑でさえ懐かしくなるのは人の気持ちの不思議です。
コロナ禍の前までは、秋と言えばたくさんのイベントへの参加でわが社も大忙しの季節でした。「燕三条工場の祭典」「燕三条ものつくりメッセ」「展示会への出展」「小学生の工場見学の受け入れ」etc。しかし、あのコロナ禍の騒動ですべてを自粛いたしました。何もない静かな秋に慣れてくると、張り切ってイベントに参加していた5年前までのわが社のエネルギーが今では懐かしいです。考えてみたら、あの頃は「岡部キンさん」という大黒柱がいました。「伊藤栄子さん」という60年選手の重鎮がいました。ヤスリの生き証人であるような2人。しっかりとした核が社内にあることで、外へのアピールも充実していました。今は、決してエネルギーがなくなったわけではありませんが、ちょうど大勢の社員が入れ替わったタイミングです。新しい伝統を作りつつある彼らと、一から新しいことを始めるにはもう少し時間が必要なようです。しばらく充電期間を頂けますようお願いいたします。
7か月ぶりの登場ですので、もう少し楽しいエピソードを書きたいところでしたが、ほぼ何事もなく過ぎた日々でした。このコーナーを見た社員の一人から「文章が長すぎる!!」と叱られました。という訳で、今回はご無沙汰のお詫びだけで失礼させていただきます。(R記)
今なぜか柄沢ヤスリの工場にそよ風が吹いています。
昨年の秋以来、戦力の目立て職人が辞めたり、中堅の職人が事情で休暇に入ったり、さらにベテラン職人までもが体調を崩してしまったり、柄沢ヤスリの目立て集団は一体どうなってしまうのかとかなり深刻な状況でした。今年に入って二人の新人が新機械の操作のために入社したことは前回書きました。二人の協力体制で新機械の運転も順調に進んだため、新人の内の一人をそのまま機械操作に、34歳のフレッシュマンには目立て作業を覚えてもらうことにしました。それが、大正解でした。これまでの柄沢ヤスリの目立て仕事は、それぞれが一国一城の主のようなものでした。職人達は担当が決まったヤスリの目を立てることに専念すればOKで、問題がなければ別に他とコミュニケーションをとる必要もなし。自分一人の責任で仕事を完結できるのがわが社の目立て仕事の特徴でした。職人は各々のこだわりやプライドや負けん気があるので、目指すベクトルの方向はマチマチ。職人たちのあまりの考え方の違いに傍でハラハラすることも度々でした。それでも仕事的にはそれなりのバランスが取れていたことは不思議です。ところが、戦力の一人が退職しそのバランスが音を立てて崩れ始めました。熟練の職人と言えども扱うヤスリに得手不得手があります。一人を欠いたことで、これまでやってこなかったヤスリも手掛けることになりました。大変だったことは十分に理解できます。工場内はしばらく嵐のようでした。
そして、2月。機械操作から目立てに配置替えしたフレッシュマンと11月入社の若き目立て職人が、目立て歴5年目の先輩女性をリーダーに実に生き生きと技術の習得に励んでいます。その3人の姿があまりに新鮮で微笑ましく、「柄沢ヤスリにそよ風が吹き始めたね」と皆で話しているところです。自分の城を守る頑固な職人も大事です。しかし将来に技術を繋いでいくためには、自らのテリトリーを勇気をもって開放し共有することも必要です。若い人たちの仕事ぶりに明るい未来が見え始めました。
ベテラン職人の指導をしっかり仰いだ女子二人が、自分たちの力だけで亜鉛の『型』を流している様子を本日のInstagramに投稿しました。頼もしい二人の様子をぜひご覧ください。(R記)
令和6年もスタートしてから1か月以上が経ちました。今年初めてのご挨拶です。
令和6年は1月1日の地震から始まり、本当に色々なことがありすぎていまだに心が落ちつきません。地震で被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。当社はお陰様で目に見えるような被害もなく、ありがたいことだと思っています。震源地から離れた新潟市の方が、液状化現象などでかえって被害が大きいようです。自身も新潟市には20年ほど住んでいましたので、状況が心配です。
さて、会社の近況です。待ちに待った「新機械」がようやく第2工場にて稼働を始めました。専任の作業者がなかなか決まりませんでしたが、1月に求人に応募してくれたフレッシュな2人を採用できました。2人でとてもスムーズなコミュニケーションを取りながら予想以上に順調な滑り出しです。「柄沢ヤスリにもようやく新しい風が吹き始めた!」ともっぱらの評判です。これまで2年以上もお待たせしてきたお客様に、やっとお応えできます。
そして昨日、薬をもらいに行った町の医院で岡部さんに会いました!思わず2人で手を取り合ってしまいました。100歳と9ヶ月の彼女は、すこぶる元気でした。医院は岡部さんの自宅の目の前ですが、さすがに息子さんが付き添ってきていました。しかし診察室には一人でスタスタ。先生と挨拶を交わす明るく大きな声が聞こえてきました。待合室で「春になったら、ちょっとだけ目立ての指導に来てくれませんか?」と遠慮しぃしぃ聞いてみたら、なんと息子さんの方から「どうぞどうぞ。いつでもどうぞ」と快い返事。「こいつぁ、春から縁起がいいぞ!」とウキウキしながら帰ってきました。岡部さんの目立て指導の後日談。ぜひお楽しみに。(R記)
出会いがあれば別れもある。今年はそんな秋になりました。
1人の有望な社員から退職の意向を告げられたのは10月の頭でした。全く予想だにしていなかったことでしたので、驚く以外にありませんでした。誰よりも早く出社して、誰よりも機械の知識が豊富で、誰よりも新しいことに挑戦して、誰よりも気働きがあって・・・特に9月に導入した新機械の操作については彼が中心になってくれることを期待していましたから、わが社にとっては大きな損失です。慰留はしましたが、すでに次の仕事も決まっていた様です。話を聞いて、給料を含めわが社が彼の能力や希望を生かし切れる職場ではなかったことが、退職を決めた一番の理由であることがわかりました。残念ですが、諦めざるを得ませんでした。仕事や能力への正当な評価とその対価。日々の売り上げに汲々としているわが社のような零細企業にとっては永遠の課題ですね。
しかし落胆するばかりでは先に進みません。ハローワークに求人を出したら、退職の社員と入れ替わりに若い有能な社員が来てくれました。とても聡明な女性です。手先が器用だということがヤスリの目立て職人としては最大の強みです。今、5月に引退した100歳の職人が使っていた目立て機につかまっています。100歳の職人のところにも紹介がてら連れて行きました。いまだにカクシャクとした100歳に「よろしくお願いしますね」と言われて感激していました。息の長い良い職人に育てていきたいと思います。
落胆もあれば希望もある。そんな今年の秋。前を向いて一歩ずつ歩を進める決意をしたところです。(R記)
このコーナー本当に久しぶりです。連日の猛暑にバテててしまいそうですが、例年お盆を過ぎると気候も落ち着きますので、あとひと月ほどの我慢です。皆様、何とか乗り切りましょう!
さて、わが社は昨年からいくつかの新しいことに取り組んできました。その中でも最大の念願だった新機械がお盆過ぎに完成します。これまで折に触れて書いてきたことですが、ヤスリ製造の工程を担う作業者の多くが引退したり廃業したりで、ヤスリ製造は今大きな岐路に立たされています。私たちが抱える問題点を簡単にまとめてみます。
1.材料 ヤスリの材料は炭素の含有率が1.4%ほどもある高炭素鋼が一般的でした。しかしヤスリ屋の減少で材料の需要が減り、大事なヤスリ材の入手が困難となりました。代替材でもヤスリは製造できますが、炭素の含有量が違うので焼き入れの方法や仕上がりが変わりヤスリ屋は苦労しています。
2.火造り(鍛造) 真っ赤に熱した材料を叩いてヤスリの概形を作る作業です。16年前にお抱えの火造り職人が亡くなり、わが社は伝統的なヤスリの火造りができなくなりました。金物の町三条にはまだ火造り職人は残っているようですが、「三条の刃物や和釘の火造り」と「燕のヤスリの火造り」は違うとよく先代が言っていたそうで、今となっては何が違うのか不明です。わが社は現在は洋食器のプレスの技術を利用してヤスリの成形を行っています。火造り時代のような自在な形は望むべくもありません。
3.削り 熱加工した鉄材の表面には脱炭層やスケールができます。それを削り取ったり様々な形に仕上げ成形したりする作業です。かつてはヤスリやグラインダーを利用して人の手で行ってきました。しかし、5年前に最後の削り職人が高齢のため引退しました。そのため機械に頼らざるを得なくなりました。今回導入する新機械もこの削りをするNC機です。これまでも過去2回、国の補助金で削りの機械を開発・導入しました。しかし、ヤスリには様々な形状があり1台や2台の機械ではとてもすべての形状に対応しきれません。そこで3回目の挑戦で今回のNC機の導入に至ったわけです。どんな機能を持つ機械であるかは、企業秘密ですので詳しくはお伝えできませんが、このNC機が順調に稼働するようになれば、お客様をかれこれ2年もお待たせしているヤスリも納品できるようになります。そのくらいこの削りの工程は作業が滞っていました。新機械が「ヤスリ業界の革命児!!」となってくれることを期待しているところです。
4.目立て 「100歳のベテラン目立て職人が引退して、品質が落ちたのではないか?」と早速問い合わせがきてびっくりしましたが、ご心配は無用。わが社にはベテランの手ほどきを直接受けた目立て職人が5名います。そのうち3名は40代前半。それぞれが得意とする分野を持ちしっかりと技術を受け継いでいます。
今日本中が困っているのが「手切りの目立て職人」がいないこと。ヤスリには機械で目立てできるものと機械では絶対不可能であるものがあります。手切りでしか目立てできないヤスリは、機械の中にセットして使用する形がいびつなヤスリとか、医療用で骨を削るヤスリとか、グラインダー用の大型砥石の側面にヤスリ目を立てたものとか・・・かなり特殊なヤスリばかりです。大量には出ません。しかしたとえ1本でもなくてはならない重要なヤスリばかりなのです。今後手切り職人の後継者は誕生するのか?今ヤスリ業界に課せられた大きな課題と言えましょう。
5.焼き入れ 800℃前後の鉛炉で焼き入れをしますから過酷な作業ですが、工程の最後にヤスリに刃物としての命を吹き込む作業ですので、非常に重要で責任重大です。ヤスリの焼き入れ師は日本でもあと数人しかいないと思われます。幸いわが社は40代前半の2人の焼き師が交代で焼き入れを行っています。しかし鉛を使用しますので、環境保護のためにいずれは鉛焼き入れは不可能となることでしょう。今の鉛浴に代わる新しい焼き入れ法を早急に開発することが望まれますが、細かな「目」のあるヤスリの焼き入れは繊細な作業ですので、難題です。さらに科学の進歩した現代で、いまだに食用の「味噌」を塗って前時代的な焼き入れしていることを話すと科学者たちは目を丸くします。その味噌が実は重要な役割を果たしていることは何度も書きました。日本の伝統技術は実に奥が深いのです。
新機械が入ったら、またこのコーナーでその働きぶりをお知らせいたします。どうぞお楽しみに。(R記)
とうとうこの時がきてしまいました。100歳の現役職人、岡部キンさんが5月8日勇退致しました。
彼女の引退前の一カ月は、燕市長による表彰やお客様をお迎えしての技術体験会、テレビ報道や新聞掲載・・・本当ににぎやかで忙しい日々でした。あのせわしない一カ月をよくぞ岡部さんは乗り切ったものです。お客様や取材陣を迎える私たちの方が落ち着かなかったり緊張したりして、地に足がつかないような4月でしたが、岡部さんは常に平常心。これが100歳で引退する人の仕事姿かと感心するほどにいつもと変わらぬ日常でした。
5月2日、誕生日の2日前。会社は休業日にして、地元ホテルの和食レストランで送別会を催しました。少しだけお洒落をした社員と美味しいご馳走と共に会は和やかに進みました。まず全員が驚いたこと。コースで一品ずつ出てきたお料理を100歳の岡部さんが全て平らげたことでした。よく岡部さんの長寿の秘訣は?と聞かれるのですが、間違いなく「しっかりと食べられること」に尽きます。丈夫な体と胃袋は生まれ持って神様から与えられた宝物に違いありません。毎日夕食時にはご家族と一緒に晩酌を欠かさないそうです。おかげで、燕市からの記念品もわが社の親睦会からの記念品もビール用のカップが重なってしまいました。毎晩使ってもらえたら嬉しいです。彼女のお茶目さも満開でした。普段職人たちは工場でそれぞれが別な方向を向いて仕事をしていますので、面と向かって顔を合わせることはあまりありません。服装も油で汚れた作業着姿が常です。しかしホテルでは皆見違えるようにいい男いい女ぞろいでした。岡部さんが一人一人に挨拶しながら、「ところであんた誰だったっけ?」と聞くので皆で大笑い。「よろしくお願いしますね」と続くのでまた大笑いで「毎日一緒だったのに」と言ったら、「これからの柄沢ヤスリをお願いしますと言ってるんだ!!」と叱られ、一瞬鼻の奥がツンとしてしまいました。昭和20年の長岡空襲の体験談になった時、40歳台前半の社員は「うわぁー、教科書に出てくる話を生で聞いている」と大興奮。岡部さんがおよそ90年前の小学校時代、ドッジボールの選手だった話題ではある社員が「私はボールが怖いから逃げる」と言ったら、岡部さん「私はバシッと取ってしっかり攻撃したよ。優勝して町を凱旋行進したもんだ」と胸を張っていました。焼き入れ職人と手をあわせて大きさを比べた時には、「岡部さんの手は大きくてやっぱり職人の手だ!!」と感激。年季の入った大きな「手」は60年間の職人としての勲章と言えましょう。最後にお祝いのバースデーケーキもしっかりとお腹に収め会は終わりました。愉快で、涙なんてどこにもない送別会でした。岡部さんの人柄そのもののような会でした。
そして、5月8日は岡部さんの職人としての最後の日。本当にいつもと変わらず「おはよっス」と出勤です。最後に社員全員で記念撮影をすることになっていましたが、その時間まで本当に、本当に普通に目立て作業を続けていました。私の方が我慢できずに「岡部さん、一緒に写真撮ってください」と願い出ました。そしてきっと皆が欲しがっているに違いない岡部さんの職人としての最後の製品は、私が役得としてもらいました。一生大事にします。記念撮影の30分前、岡部さんが掃除を始めました。長年使ってきた相棒の目立て機をきれいに拭き上げます。機械や椅子の下を丁寧に履いています。それまで、岡部さんが引退することがいまいち実感として湧きませんでした。ずっと、工場にいてくれることが当たり前の人でしたから。しかし、目立て機の油を丁寧に拭いている姿を見て、ようやく「岡部さんが明日からいないんだ」と言いようのないさみしさがこみ上げてきて、涙をこらえるのに苦労しました。
最後の記念撮影は、社員皆ボーっと立っているだけで並び方さえなかなか決まらず、いかにもわが社らしいものでした。「ハイ、並んで!前の人座って!!一人いない、呼びに行って・・・」 しみじみと岡部さんとの別れを惜しみたいところでしたが、撮影に入るまでの騒動で涙どころではありませんでした。でも、社外のお客様からも花束がたくさん届き皆笑顔で良い写真が撮れました。わが社のインスタグラムに載せています。ご覧ください。
さて、この一連の行事には後日談があります。彼女が引退したその週の終わりの日、岡部さんが元気に会社の扉を開けました。「ど、どうしたんですか?岡部さん」と思わず抱きつきそうになりました。「ちょっと皆さんに用があって」と言いながらスタスタと古巣の工場に向かいます。そして元同僚たち一人一人に「御礼 岡部キン」と書かれた封筒を手渡しました。中には恐縮するような額が入っていました。「岡部さんの最後の給料もまだ渡していないのに」と言ったら「その給料とても楽しみにしていますから」と泣かせる一言が返ってきました。一緒に来た息子さんからも「おふくろは頑固なので、一度言い出したら聞きません。どうか皆さんお納めください」と。100歳にして、まだ他人を気遣う岡部さん。私たちは岡部さんから受けた恩をどうやって返せばよいのか、皆で思案中です。
また、悪い癖で長ーい文章になってしまいました。でも「目立て職人岡部キンさん」への最後の思いです。今回ばかりはどうかお許しください。(R記)
現在、工場でこっそりと「岡部さんの技術を体験する会」を実施しています。彼女の引退のはなむけになればと考えました。軽口・無駄口のコーナーでも人数限定で募集しましたが、残念ながら応募がなく締め切らせて頂きました。
体験会は、これまで岡部さんとご縁のあった方々に「そっと」お知らせしています。燕市役所にも電話して「市長様はまさか来てくださるわけないですよね?」と恐る恐るご案内したところ、なんと(職員の方の言葉を借りれば)『やる気満々』で来ていただけることになりました。おまけに燕市の産業に長く貢献したことへの顕彰として、彼女のために「つばめ輝く女性特別功労賞」という賞まで新設してくださったのです。
その燕市長の体験会と表彰式が昨日工場内で実施されました。「ひっそり・こっそり」の体験会のはずでしたが、燕市の出したプレスリリースのおかげでテレビ局が3社、新聞社が3・4社取材に来られ、狭い工場はすし詰め状態でした。
表彰式の際、彼女は賞状を授与する市長にお尻を向けて立ってしまって皆を笑わせ、場はしょっぱなから和やかな雰囲気に包まれました。目立て体験では、市長への技術指導は厳しくもほほえましいもので、彼女に「もう1本やってみなさい」と促された市長は「もうこれで勘弁してください」と降参する始末。夕方のニュースで「自治体のトップへも忖度なし」とテロップを出していたTV局もあり思わず笑ってしまいました。
それにしても岡部キンさんという人は肝っ玉の大きい人であることを改めて認識しました。取材には各社3名ほどで来られましたので、市役所の方々も入れて総勢30名近い人々がカメラやマイクを片手に彼女を囲みます。しかし彼女はそれにも全く動じす、実に堂々といつもと変わらぬ姿勢で機械を動かし続けていました。さまに大スターの貫禄でした。
今日もいつも通りに出勤です。「昨日は大騒ぎで、疲れませんでしたか?」と尋ねたら「ほんの少しね。それよりも皆さんの方が気を遣って大変だったでしょう」と逆に労ってもらいました。100歳にして他人のことを心配するその気遣い。何から何まで感服します。(R記)
インスタグラムにも載せましたが、ここでも再度「大谷翔平選手と爪ヤスリ」のお話を書きましょう。
今から7年前(2016年)の春、たしかプロ野球のオープン戦が始まったころだったと思います。わが社に1本の電話がかかってきました。某スポーツ新聞の記者の方からでした。以下そのやり取りです。
₍記₎「日本ハムの大谷翔平選手って知っていますか?」
(私)「野球はあまり見ないので・・・。名前と顔は知っていますが・・・」(今なら日本中からアタマを叩かれそうです)
₍記₎「今、彼が指のマメの具合が悪くてとても困っています。いいヤスリを探しているのですが、御社のヤスリを送ってもらえませんか?」
(私)「わが社のヤスリは、爪用ですから、マメが削れるかどうか?」
₍記₎「彼は絶対にこれから大リーグに行く選手ですから、何とか助けになりたいのです。ぜひお願いします。新潟で開催される日本ハムの試合のチケット送ります!新聞の『翔平日記』のコーナーに必ず御社のことを書きますから!!」
彼は大谷選手の番記者の方でした。番記者は選手に密着して取材をしますので、やはり思い入れも人一倍なのでしょう。かつてある政治家が総理大臣に指名された翌朝、番記者が書いた新聞記事がとても印象的でした。細かい表現は忘れましたが「やっと出番が来た!!番記者としてこの日が来ることを確信していた!」番記者はここまでその人物にほれ込むのかと、少し感動を持って読んだ覚えがあります。また、かの田中角栄氏は各新聞社の番記者へのお土産も欠かさなかったそうで、そんな気遣いで番記者の評判も良かったとか。著名人とその番記者の関係は特別なものがあるようですね。大谷選手の番記者の方も「彼のためになりたい」と必死でした。そんな彼の熱意にほだされて、爪ヤスリを送ることになったという次第です。
「必ず大リーグに行く!」「大谷選手のイメージカラーはブルー」の2つのキーワードをもとに、送るヤスリは「エクセレント爪ヤスリ」に決めました。上品なブルーのチタンコーティングを施してある爪ヤスリに『SHOHEI OTANI』と名入れしました。大リーグだからネームはローマ字、と単純に決めましたが今考えたら漢字で「大谷翔平」と書いた方がカッコよかったかもしれません。さらに、その時の大谷選手のマメの状態もよくわかりませんでしたので、エクセレント(細目)・甲丸型(荒目)・特注品(大荒目)の3本を送ったようです。というのも先日パソコン内の文書の整理をしていたら、ヤスリに添えた大谷選手への手紙が出てきて、3本送ったことが判明したのです。白状すれば名入りのエクセレント爪ヤスリ以外覚えていませんでした。
読み返した大谷選手への手紙は実に淡々としたものでした。ほとんどを自社とヤスリの宣伝が占め、書き出しと結びに、ほんの一言「ご活躍を・・・」。今の彼の活躍から考えたら、なんと勿体ないことだったでしょう。ちょうど指のマメのせいで、大谷選手の成績も少しだけ振るわなかったシーズンの初めでしたから、何と書いていいものやら・・・と悩んだことだけは覚えています。物事を知らない人間のすることはこんな程度だったことに、我ながら苦笑しています。
わが社の爪ヤスリが『翔平日記』の中に出てきたかは不明です。「届かなかった試合のチケット」は永遠に幻となりました。でも、大谷選手の今の大活躍の陰に、きっとわが社の「爪ヤスリ」があったに違いないと信じたいと思います。
大谷選手 これからも、ご活躍を!応援しています!! (R記)
例年になく早い桜の季節です。近所の桜の木もすでに蕾が膨らみ始めています。木々の成長が早い分、私の花粉症の症状も例年以上に重症です。空も木々も花々も美しいのに私には恨めしい季節でもあります。
さて、本日より岡部キンさんが仕事に復帰いたしました。長い冬休みでしたが、足取りも軽く無事出勤されました。休み時間に「仕事はスムーズにスタートしましたか?」と尋ねたら「はじめはちょっと戸惑ったけど、まぁまぁできたかな」という返事。さすがはこの道60年のベテランです。彼女にとって目立て機の操作はもはや体の一部ですから、2ヶ月や3ヶ月の休養で仕事を忘れる訳がありませんでした。いらぬ心配でした。
5月4日で岡部キンさんは100歳を迎え、誕生日を期に引退されます。工場での仕事もあと1ヵ月。彼女の60年の集大成を皆で支えたいと思います。
さて、ここで皆様にご相談です。彼女の引退の花道をどんな形で飾ったらよいのか?ずっと考え続けてきました。花束を渡してお別れだけではあまりに普通すぎます。だって「100歳の現役職人の引退」なのですから、何かやりたい!! そんな時誰かから「岡部さんの技術を体験してもらう」イベントはどうかという案が出ました。Goodアイデアでした。
ただし時間はあと1ヵ月しかありません。彼女の体への負担も考慮する必要があります。彼女は派手に宣伝されることは嫌います。そこで・・・こっそりと・・・このコーナーを読んでくださっている皆様限定で「岡部さんの技術を体験」したい方を募ります。
以下の予定で、ご都合のつく方は、どうぞご連絡ください。
・岡部キンさんの勤務時間 4月/月~金 午前中
・技術体験 10:30~ 30分くらい
・限定 週2組まで お申し込みが重複した場合は、調整させていただきます。
・服装など 油にまみれた機械を操作しますので、汚れてもよい服装でお越しください。
ペダル操作がありますので、スニーカーなどがおすすめです。ヒール靴・革靴はご遠慮ください。
マスクは着用していただけるとありがたいです。
・連絡先 TEL 0256-63-4766
FAX 0256-64-3947
mail brpdq837@ybb.ne.jp
体験した皆様にも、岡部キンさんにも良き記念となるイベントにできたら幸いです。
ご連絡 お待ちしています!!!
(R記)
1月もあと2日で終わり、月末です。月末と言えば給料日。わが社の給料はいまだに現金支給です。生きた化石並みの会社ですね。
そんなわけで、現在冬季休暇中の岡部キンさんに昨日給料を届けてきました。今冬は大雪ですから、この1ヵ月彼女はきっと巣籠もりだったはずです。どんな様子かドキドキしながら玄関を開けましたが、心配は無用でした。肌艶も良く、とても元気でした。何より驚かされたのはそのお洒落な装い。みかん色の明るいパンツにオリーブ色のセーターという出で立ちでした。もともとが美人でお洒落な岡部さんですから、とても若々しく似合っていました。そして私、岡部さんからなんとお小遣いを貰ってしまいました。2人で「いる、いらない」のやり取りを繰り返し、結局ポケットにお小遣いをねじ込まれてしまいました。最後は「なんか美味しいものでも食べなさいね」の言葉と共にありがたく頂戴することにいたしました。かつて、親戚のおばあちゃんを車で家まで送って行ったりすると、ティッシュに包んだお金を握らされて「ハッコイもの(新潟弁で冷たいもの、例えばアイスクリームなど)でも買いなさい」とお小遣いを貰うことがごく最近までありました。田舎の風習なのでしょうか。年配の方々の気持ちの表し方なのでしょうか。いくつになっても懐かしく、うれしい習わしです。と言っても、岡部さんのお小遣いはもったいなくてなかなか使えそうににありませんが・・・。
岡部さんの休暇明けは、雪の状況や今後の気候によってまだ定かではありませんが、新潟の梅が咲くころ、3月の下旬になりそうです。それまでゆっくり休んでもらって、5月には100歳の現役職人として晴れやかに引退の花道を飾ってくれることを楽しみにしたいと思います。(R記)
皆様 明けましておめでとうございます。
コロナ禍で迎える3回目の新年です。たった3年で、世の中の多くが様変わりしました。この変化が当たり前になり、私など3年前のごく日常の生活が思い出せないくらいです。
わが社は昨年来大きな変化の年になりました。まず、第2工場の竣工が相成りました。ありがたいことに補助金事業が通りましたので、そこに大型の機械が入ります。機械の製作には8・9ヶ月かかりますので、第2工場が機能するのは秋になりそうです。今回導入する機械は、大きな会社にとってはきっとちっぽけな機械でしかないと思います。しかし、仕事をしてくれる職人が高齢化のため次々と廃業してしまった現在、わが社のような小さなヤスリ屋にとっては生き残りをかけた大事業です。しっかりと使いこなせるか、使いこなせる人材を育てられるか、が次の課題となります。
2つ目の変化。ベテラン職人の岡部キンさんが100歳の誕生日を期に、いよいよ引退の時を迎えます。99歳になった昨年5月に引退の申し出がありましたが、後継者が育つまでの約束で引退をの日を延ばしてきました。6月に入社した新人は残念ながら後継者にはなれませんでしたが、大丈夫!!これまで岡部さん直々の指導を受けてきた2人がしっかりと大先輩の技術を引き継ぎます。今、岡部さんは春になるまで有給休暇中です。雪国新潟の冬は厳しいです。ヤスリは金属ですので冬場のヤスリは温度も低く、それを扱う目立て職人の手先は冷たくて辛いそうです。冬の間大事をとって休んでもらいました。岡部さんの息子さんからは「今年母は100歳になれそうです!!」と年賀状が来ました。彼女が元気でいてくれることは皆の喜びでもあります。
以上の2つ以外に、何かめぼしい変化を探しましたが、残念ながら今のところ見つけられませんでした。昨年12月の突然の降雪には驚かされましたが、幸いその後は雪もほとんどなく雪国の冬としては助かっています。売り上げの方は変わらず低値安定といったところです。景気の早い回復が待たれます。コロナは社員には感染者は出ていませんが、社員の家族は何人か感染者が出ました。頂いた年賀状の半数にコロナの終息を願う言葉が添えてありました。
今年こそは良い年にしたいものです。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。(R記)
職人の多いわが社は、職業柄腰痛持ちが大勢います。つい最近も若い社員が腰痛で欠勤し、出勤した3日目の朝にはトレッキング用のストック(杖?)をついて這う這うの体で歩いていたのには、びっくりしました。もともと四足歩行だった人間が二足歩行に進化したことが原因と言われる腰痛は、もはや人間の宿命と言っても良いのかもしれませんね。特にわが社が扱う製品は鉄が原料の「ヤスリ」ですから、社員が持ち上げる通い箱は、小さなものでも20㎏は優に超えています。腰への負担は避けられません。私が入社した12年前、長さ2mほどの丸棒の材料が束になって送られてきました。配達に来た宅急便の方に「一人では持てないので、誰か手伝ってください」と言われました。なんだか細くて軽そうに見えたので、宅急便さんが「無理ですから、やめてください!!!」と大声で叫ぶのを無視して鉄材の端を持ってしまいました。その瞬間、今まで経験したことのない鉄の比重を初めて身体に受け、腰に「ピリッ」と電気が走りました。それまで、学校という職場でチョーク以上の重いものを持ったことのなかった私は「これが噂の腰痛か」と、おおいに後悔しましたが後の祭りでした。以来、10年余り「腰痛」は私の持病となってしまいました。年に1回以上は接骨院のお世話になっています。
そんなわけで、わが社には社員の福利厚生用に購入した「低周波治療器」があります。皮膚に治療器を張り付けてビリビリ来るあれです。少し値は張りましたが、社員の健康ためです。奮発しました。休憩室に置いて、自由に使っても良いことになっていたのですが、何人もいる腰痛持ちの誰も使おうとしません。そう言えば昨年「温熱ベスト」を導入した時も同じようなことがありました。灯油節約のために「温熱ベスト」を買ってやりますから、と注文を取ったのですが希望したのは14名中の4名(うち3名は事務所の人間)だけでした。そのくせ新しいものには興味津々で、こっそりと試着はしていた様子でした。偏屈で頑固は職人の常と言えそうです。そのストックをついて出社してきた社員は、よほど辛かったのでしょう。治療器を自宅に持ち帰って毎日治療しているようです。昨年素直に温熱ベストを着用した4人の中の1人も今回の彼でした。わが社の職人集団はやっぱり偏屈だなぁと、こんな小さな出来事があるたびに感心しています。
接骨院の先生によれば寒い季節はもとより、梅雨時も腰の治療に来る患者さんが多いそうです。湿気も「痛み」には大敵なようですよ。寒さ厳しいこの季節皆様もどうか「腰」をお大事に。 (R記)
この1週間はご紹介できる事がちょっとだけありました。
一つ目は遠来のお客様があったこと。福岡からのお客様でした。これまでのわが社のお客様の中で最も遠方からの来社でした。昭和19年に旧制中学に入学されたと聞きましたので、エッ!90歳を超えていらっしゃる方だったことに今気づきました。「GO to トラベル」を利用し、奥様の運転で自動車の旅をしていらっしゃるご夫婦でした。10月7日に福岡を出発し、青森から秋田、前日は新潟県の村上へ、そして旅を始めて20日目の10月26日、爪ヤスリを求めてわが社に来られたということでした。写真館を営んでおられるそうで、写真を撮るために「(紅葉の)色を追いかけて」日本各地を旅しているとお聞きしましたが、今年の色はいまいちだそうです。やはり天候不順が影響しているでしょうか。せっかく燕に来たので「世界一の洋食器が見たい」と地場産業センターに向かわれました。ご自分たちのペースで時間をゆっくりと使いながらの旅。素敵なご夫妻でした。今頃、どのあたりの「色」を撮っておられることでしょう?福岡までの旅路はまだまだ続いていることでしょうが、「近喰様、どうか良い旅を」とお祈りしています。
二つ目は、社員と3人で昨日東京に出かけたこと。前回書いた「最後の手切りヤスリの職人さん」の仕事を見せてもらうことが目的でした。わが社の職人もうなるほど、実に見事な仕事でした。よく目の入ったヤスリは、拡大してみると目が「鱗」の様に揃っています。その職人さんの切った目は、素人の私が見てもその「鱗」がしっかりと見て取れました。ルーペを覗きながら、わが社の目立て職人たちは「ワーッ!すごい目だ」と歓喜の声を上げていました。さて、これほどの職人技、引き継ぐことは一朝一夕にはまず無理でしょう。しかしこんな目を切ってみたいと、わが社の職人の職人魂が揺さぶられたことだけは確かだったようです。感動で、見せていただいた1時間半はあっという間に過ぎました。
ところで東京という街は、ひたすら「歩く」街ですね。地下鉄の駅の乗り換えだけで300m、A1~A5の出口を探して数百m。出口を間違えてまた戻って数百m。改札口は、ホームの一番後ろまで歩かねばたどり着かず。階段を上ったり下りたり。昨日の半日の東京滞在で1万歩きました。そして、歩きなれている都会の人々の足の早いことにも驚かされました。ちょっとそこまで行くのにも車を利用する田舎の人間には、感動ですらありました。「door to door」の便利な暮らしは人間をダメにするかも、と昨日はちょっと反省させられました。
また、新しくなった新幹線も感動的でした。内装も綺麗。座席はゆったりとして十分に足を延ばせます。椅子についた枕は上下スライド式で体形に合わせて調整できます。揺れも少なかったような気がします。お手洗いも快適。女性専用個室には着替え用の台までありましたから驚きです。デッキは以前よりも広々として、乗降車するときも楽です。コロナ禍のせいで私には2年9ヵ月ぶりの新幹線の旅でした。乗客の皆さんマナーをしっかり守って全員マスクを着用していましたし、新しい日常が少しずつ戻ってきているのかなぁと、1万歩も酷使されて痛む足をさすりながら思ったことでした。 (R記)
厳しかった夏も終わり、すっかり秋です。コロナ禍が始まって以降3回目の秋。何事もなく淡々と日々が過ぎています。様々な行事で忙しかった3年前の秋が遠い昔のことのようです。その中で社員皆が元気で過ごしていることをありがたく思います。
ここのところ少し残念なことが続きました。一つ目は、国内でただ一社「手切りのヤスリ」を作っていたヤスリ屋さんが廃業したこと。社長さんが急逝され、やむなく決断されたそうです。一般にヤスリは、ミシンのような構造の「目立て機」に鉄の棒材をセットして目を刻んで行きます。機械にセットできないような立体型のヤスリは「手切り」に依存するしかありません。これまでわが社に依頼のあった「土筆のような球体の盆栽用ヤスリ」や「刀の鞘用ヤスリ」など特殊なヤスリの目立てはすべてそのヤスリ屋さんに依頼してきました。そんな彼を失ったことは実はヤスリ業界にとっては非常に大きな痛手であり、日本のヤスリの伝統技術が途絶えてしまうかもしれないほどの重大な危機なのです。ここ数年、呉の重鎮のヤスリ屋さんの廃業や業種転換が相次ぎ、業界内の不安が続く中でさらにショッキングなニュースでした。そのニュースが流れるや否や、早速わが社に声が掛かりました。「手切りヤスリ」の伝統を繋いでほしいと。わが社は40歳代前半の目立て職人が3人います。これまで、いずれは・・・と、漠然とながら考えないこともありませんでしたが、あまりにも急でした。さらに自社の事業や将来のことも考えねばなりません。「手切りヤスリ」にまで手が回るか、まだ結論は出ませんし、自信もありません。幸いその社長さんと一緒に仕事をしてきた専務さんも手切りの技術を持っておられるので、とりあえず職人と3人で上京して話をお聞きすることになりました。消滅寸前の「伝統技術」の伝承。また一つ重い荷物を背負うことになるかもしれません。私たちにできるでしょうか?
残念なこと二つ目は、6月に入社した新人職人が4カ月で退社してしまったこと。ずっと元気で張り切って仕事に打ち込んでいたので、とても残念です。大変まじめで繊細な人柄の人でしたから、少し頑張りすぎたでしょうか。「99歳のベテラン職人の後継者」とはっきり明記しての求人でしたから、期待していた分少し焦ってもいます。実は「99歳」まだ頑張ってくれているのです。「新人が技術を習得するまで」との約束で引退の日を引き延ばしてきましたから、後継者候補がいなくなって、さてどうしたら良いのでしょう?このコーナーを読んで、我こそは後継者に!と思わん方、大歓迎ですのでいつでも見学においでください。
そんな中で、ほんの少しだけうれしいこともあります。5月から準備を進めてきた第2工場の大改修が終了し、8月末から新しい工場で仕事を開始しています。機械の移動はまだ済んでいませんので、ほんの1台だけある機械を稼働させるのみですが、「第2工場に行ってきます」と社員から声が掛かると、なんだか心弾みます。
予算の都合で、第2工場が工場としてしっかりと機能するまで1年以上は掛かりそうですが、その際はぜひ足をお運びください。(R記)
ここのところ何人かの教え子と遭遇する機会がありました。それも仕事関係ですから、驚きです。
一人目は、昨年末からお取引が始まった外注先の専務さんです。出会って数か月して「ずっと思っていたのですが、昔どこかでお会いしたことがありませんでしたか?もしかしたら、学校関係?」よくよく記憶を照らし合わせてみたら、工業高校の化学科の卒業生でした。私の受け持ったクラスより2・3年下のようでしたから直接教えたことはありませんでしたが、何しろ職員80名中女性職員が数名しかいない学校でしたから、たとえ変な先生でも覚えていてくれたのでしょう。卒業後は大学でも化学を学び、今やしっかりと家業を継いだ立派な専務さんですから、優秀な生徒だったはずです。今後ともよろしくお願いいたします。
二人目は、ハローワークに求人を出したところ、会社見学に来てくれた女性でした。テーブルに着くなり「私のこと、覚えていますか?教科でお世話になりました」と話し始めました。旧姓を聞いて、マスクを外したら「なんだ。3年間私のクラスだった〇〇じゃないの。忘れる訳がないでしょ!!」と見学そっちのけで盛り上がりました。卒業して12年。ずっと保母さんをしていましたが、色々な苦労もあったようです。彼女のご主人も(私、面と向かって、あなたの『夫は』という言い方が大嫌いです。特に『NHK』。日本語には『夫・主人・宿六・亭主・旦那・相棒・パートナーetc』等様々な呼び方があります。奥さんだって『妻・奥さん・家内・ご内儀・上さんetc 』同じです。英語のhusband・wifeと違って、日本語にはその時々に応じた豊かな言い方がたくさんあります。私はその人に向かって「あなたの夫」「あなたの妻」なんて言い方は絶対にいたしません!!・・・・・本題から逸れた、かなりの蛇足でした)物作りの仕事をしているそうで、ずっと工場の仕事に興味があったと話してくれました。真面目な人柄もよく知っていますし、事情も分かりました。しかし残念ながらその前日にすでに別な女性の採用を決めてしまったばかりでした。申し訳なかったですが教え子との新しい関係は築けませんでした。次にわが社が求人を出した時に、縁があったらまた来ますと約束して帰っていきました。
三人目は、材料メーカーの新人さんです。フレッシュな社員が入ったのでご挨拶がてら連れていきます、と連絡がありました。早速名刺交換を始めたところ、彼がじっと私を見ています。「もしかして〇〇高校でお世話になった先生ですよね?」当然昔の学生服姿ではありませんので、しばらく思い出せませんでした。しかし、話をしているうちに、段々記憶は蘇ってくるものです。そう、真面目で折り目正しく、イケメンのあの子でした。立派になった姿に感動でした。
実は数年前にも、出張で行った東京のホテルでも同じような出会いがありました。どうせ私のことを知っている人はいない東京だから、羽を伸ばすぞ!思っていたら、レセプションで「学校関係の方ですよね。教わりました」と声をかけられたのです。1400万人の人が暮らす東京でですよ。学校は毎年1000人近い生徒と触れ合いますから、30年教職についていれば他の職業の方々より知己は多いかもしれません。私は覚えていなくても私を知っている人は多いはずですから、常に襟を正さねば。スパーで割引シールのついた商品を漁るのはちょっと控えようか・・・などとついつい考えてしまいます。
彼らの人生の中のほんの一瞬触れ合っただけなのに、覚えていてもらえたことに感謝です。そして、仕事で再び出会う偶然が重なるなんて尚うれしいことです。この人脈大事にしたいものです。(R記)
本日はヤスリ屋の話題から離れます。全く私の個人的な知り合いの話ですので、お許しください。
前々回、二人の99歳のことを書きました。実は私の身近にはもう一人99歳(ただし誕生日まではしばらく98歳)がいます。三人目の99歳は、私の趣味の音楽仲間です。本業は額縁職人。現役時代は、かの平山郁夫画伯の額縁を専門に作っていた人で、中堅の画家たちをして「自分も早く彼の額縁を使えるようになりたい」と言わしめたとか。彼の額は、画伯の絵と共にあのバチカン宮殿にも奉納されています。彼は本業の傍ら趣味でバイオリンを弾いていましたが、地元でカルテットを組むために50歳代でビオラに転向しました。ビオラは楽譜がト音記号ともヘ音記号とも異なる「ハ音記号」ですから、苦労も多かったでしょうがそこは職人気質の人です。しっかりとビオラ弾きになりました。80歳の時は現役のビオラ弾きとして、地元紙に大きく取り上げられました。趣味も幅広く一流です。家に飾ってある絵の作者を尋ねたら「川端竜子」と返事がきて、びっくり仰天。そんな彼をリーダーとして、「20代から50代までの4人組」をキャッチフレーズにカルテットをスタートさせ30年近く一緒に演奏活動を続けてきました。地元のFMラジオで私たちの演奏が放送された時は、ラジオの前で4人で正座をして聞き入ったものでした。彼が70代の時には彼の奥さんも一緒にモーツァルトの聖地を尋ねる旅に誘いました。趣味を同じくする仲間との旅は愉快でした。 そんな仲間たちとの密な関わりでしたが、私が母の介護でカルテットを抜けたのをきっかけに、15年ほど前に自然消滅してしまいました。以来彼の動静は年賀状で知るだけになりました。
そして、今回拙文が新聞に載ったことをきっかけに、久しぶりに彼を尋ねてみる気になりました。いつも私の身近の二人の99歳を気にかけてくれていましたから、新聞のコピーを持参して二人とも元気でやっていることを報告したかったのです。少し耳が遠くなっていたことと、足が少し辛そうなことを除けば、彼はとても元気でした。バイオリンは左肩に楽器を載せて耳のそばで音を奏でますから、後年耳に影響するという話はよく聞きます。「デイサービスには行っているのですか?」と聞いたら、そこにいることがストレスになるから行くのをやめたとのこと。彼の気質からしたらわかる気がします。5年前オシドリ夫婦だった奥さんを亡くしましたが、今は曾孫さんまで含めて4世代同居。時々バイオリンを弾き、現在はスマホの特訓中とか。「もし変なメールが届いたら許してくださいね」いえいえ、私など欄を一段間違えて他所へ電話してしまうことなどしょっちゅうです。ご心配は無用です。10分にも満たない訪問でしたが、99歳(まだしばらく98歳)の、昔の仲間への気遣いが感じ取れ幸せな時間でした。 私の好きな言葉があります。「友情とは、相手の大切にしているものに敬意を表することである」。いつも変わらず周囲へ敬意を示してくれる99歳(もうしばらくは98歳・・・少しシツコイかな?)。やっぱりすごいです。
私の身近の大正生まれの三人。学ぶことばかりですが、彼らの傍にいられるだけでも私は幸せ者です。(R記)
電柱の持ち主ってご存じでしたか?
第2工場の工事も順調に進んでいます。工場の表と裏にあった物置が取り壊され、そこを駐車場にするため今日は大量の土砂が盛り込まれていました。建物がなくなった分敷地の周囲の見通しがずいぶんよくなりましたが、その代わりに今まで目につかなかったものが見えてしまいました。それが電柱でした。これまでは電柱が物置の隅にあったので気が付かなかったのですが、電柱には柱を支える「支線」というものがあるのですね。その支線が駐車場の入り口予定地の幅を1/3も占領しているのです。そこで、電信柱のことですから早速電力会社に電話をしました。その時初めて電信柱の持ち主を知らされました。なんとその柱の所有者は「NTT」だったのです。NTTの柱を電力会社が借りて一緒に使用しているのだそうです。電信柱の(住所)表記も初めて見ました。柱の真ん中辺、縦に「NTTマーク」、横に「電力会社のマーク」が書かれたプレートが確かに張ってありました。次から次へと電話をかけ直すこと4回目でようやくNTTの工事部門にたどり着くことができました。
本日、NTTの施工担当者がきてくれて早速実地検分をいたしました。結論は、柱の強度の問題があるので支線の移動は『無理』とのことでした。ただし全く策がないという訳でもありません。「30~40㎝横に動かす」あるいは「2本ある支線のうち1本を駐車場予定地の反対隅に持ってくる」。しかしいずれもほとんど意味のない移動だとか。さらに個人の都合で動かすので数十万円の費用が掛かるとのこと。電力にも電話にも常日頃お世話になっていますから、「何とかしろ!」と喚くわけにもいきません。支えを動かしたことで、強風で電信柱が倒れでもしたらそれこそ大事です。 まぁ、しょうがないので諦めることにいたしました。そこに支線があることを忘れるために、その前に垣根でも作りましょうか。
それにしても、電柱の持ち主興味深いです。それを知って以来電柱のプレート観察、趣味になりそうです。(R記)
今朝の産経新聞の”朝晴れエッセー”のコーナーに、岡部さんのことを書いた拙文が恥ずかしながら掲載されました。
昨年から、自力では解決できない大きな懸案事項をいくつか抱えていました。いずれもなかなか決着を見ず、責任を負う立場の私はとうとうその不安が体調に現れてしまいました。5月の連休のころから熱が出たり胃がキリキリと痛んだり・・・。岡部さんが「引退」を口にしたのもちょうどその頃でした。毎日痛むみぞおちを押さえながら、何か一つでも良いから光が欲しいと思っていたところ、愛読する新聞のエッセー募集の一文が目に留まりました。ちょうど自身の誕生日だったこともあり、その記念と落ち込んでいる自分を鼓舞するために、一気呵成に書き上げました。
書く内容は、岡部さんのことにすぐ決まりました。本当は私の母も岡部さんと同い年なので、最初は「二人の99歳」というタイトルで書き始めました。しかし字数制限の2倍もの長さになってしまい、なんといっても岡部さんのエピソードの方が書き甲斐があるというものです。そこで、申し訳ないけれど母の部分は端折り、ベテラン岡部さんのことだけを書くことにしたのです。
私の拙い文章で、岡部さんの魅力や人となりが伝え切れたか、はなはだ不安です。しかし、地味なヤスリの職人として、ひたすら地道に真面目に仕事に打ち込んできた彼女に、何か一つ記念碑を刻んであげたかった。彼女の名前も顔も出ないけれど、「越後燕にはこんな職人がいるんだぞ!!」と全国紙に載せてもらったことで、長年社を支えてくれた岡部さんへほんの少しでも恩返しになったかな、と一つ肩の荷が下りた気がしています。
「引退の日」は彼女の心の中ではきっと決まっているのでしょうが、責任感の強い彼女です。新人が一丁前になるまでは言い出さないと思います。毎日書きますが、今日も彼女は変わらず元気です。そしていつもお洒落で素敵です。私の体調も良くなりつつありますが、一番大きな懸案事項の結果が実は来週出ます。社の将来を左右するかもしれない大きな事業です。それを考えると・・・あぁ、また胃が痛い!!(R記)
6月1日、新入社員が仲間に加わりました。
はっきり申しましょう。岡部さんの後継者候補です。ベテラン職人の岡部さんが5月4日に99歳を迎えました。とうとう彼女の口から「引退」という言葉が出たのは誕生日の数日前でした。いつかはこの時が来ることは覚悟していましたが、これまでずっと彼女の気丈夫に甘えてきましたから今度ばかりは引き留めることはしませんでした。ただし交換条件として、「本気で『岡部さんの後継者募集』と書いて求人を出します。後継者が見つかり岡部さんの仕事を覚えてもらうまで、難儀でなければ週1日で良いから出社してもらえますか?」とお願いしたところ・・・返事は「そんな中途半端な仕事の仕方は私は嫌いです。辞める日は自分で決めます。最後の日まで今まで通り毎日来ます!!」恐れ入りました。かくして、99歳を迎えて1カ月、いつもと変わりなく毎日元気に仕事に励んでいます。
さて、新入社員の紹介です。求人を出してすぐに工場見学に来てくれました。学校を卒業して12年目の女性です。工場の経験はありませんが、前職でわが社の人気商品「誉ヤスリ」を扱ったことがあるそうで、それでわが社に興味を持ってくれました。工場見学のはずでしたが、しっかり岡部さんから「目立て作業」の指南を受け早速爪ヤスリを1本仕上げました。初めて手掛けたヤスリをいとおしそうに持って帰りました。きっと正式に応募してくれるに違いないと期待しましたが、なかなか応募してきてくれません。諦めかけたころようやく正式に応募がありました。やはりあの有名な『岡部さんの後継者』という一文に相当なプレッシャーがあったそうです。
今日でまだ3日目ですが、初めての工場勤務をよく頑張っています。背が高い人なので目立て機械や椅子の調整が大変そうで、きっと家に帰って身体中が痛いことでしょう。地域おこし協力隊に所属した経験もある人ですから、地場産業への理解も深く意欲も満々です。若いメンバーが一人増えただけで、工場の雰囲気も明るくなりました。さらにうれしいことに、わが社で一番足りなかった「SNS発信」の担い手になってくれそうです。昨日『Instagramデビュー』を飾りました。文面には🔰マークがあり、それがカワイイと好評です。読んでいただければ幸いです。
しかし、新人が伸びてくれることはうれしいのですが、それはベテラン岡部さんの引退の日が近づくことも意味し、少し複雑です。岡部さんが決断を下す日まで、今の工場の光景をしっかり目に焼き付け心に刻みたいと思います。でも心の中では【100歳の現役職人!!】と書ける日を密かに期待してもいるのです。(R記)
前回お話しした第2工場の竣工がいよいよ本決まりになりました。それに先立ち、5月26日(木)大安の日を選んで工事安全祈願祭を挙行いたしました。私、こう見えて信心深い質(たち)なのです。旅行に出かけるときや、大きなイベントで県外に出張するときなど、必ず火打石を打つ「切り火」を習慣としています。ただし石を打つ火打ち金がなぜか見当たらないので、打ち金は昔から商売物の「ヤスリ」を代用しています。きれいな火花がパッと広がるときは、何が良いことが起こりそうでうれしいものです。逆は・・・思い通りの火花がでるまで、何度でも石を打ち付けます。執念ですね。
さて、当日の祈願祭のご祈祷は新潟県南魚沼市大崎の八海山尊神社の宮司様にお願いいたしました。祭壇等のお道具は、宮司様がすべて南魚沼から持参してくださいました。準備するようご指示のあった神餞(お供え物)にも決まりがあります。 ①酒 1升 ②米 5合 ③塩 1㎏ ④お水 ⑤尾頭付きの鯛 ⑥季節の野菜(今回は蕪・胡瓜・人参)⑦果物(パイナップル・リンゴ・夏みかんにしました)⑧餞菓(お菓子 隣町の天満宮祭の代表的なお菓子「紅白の梅最中」を注文しました)
一番苦労したのが、「尾頭付きの鯛」探しでした。普段はほとんどスーパーで買い物を済ませていますので、町には「魚屋さん」が見当たらないことにはたと気づきました。何軒かはあるにはあるのですが、普段買い付けていないお店なので、たった1尾の小さな鯛を注文するのもはばかられます。そこで99歳の職人の知恵を借りました。彼女のアドバイスで最近オープンしたばかりの大きなスーパーの鮮魚コーナーでようやく入手できました。残念ながら天然物は手に入らず養殖物ではありましたが、私にとっては初めて手にする一尾物の立派な鯛でした。
式典への参列者は、社員・工事関係者・お世話になった方々総勢25名でした。厳かな祝詞(のりと)が始まりました。工事安全はもとより、宮司様が何日もかけて構想くださったわが社の成り立ちから社運隆盛・社員の健康まで祈願していただきました。八海山尊神社は2礼4拍手1礼がお参りするときのお作法です。7名の代表が玉串奉奠に臨みましたが、緊張しました。緊張のあまりお作法を忘れる代表もいましたが、宮司様は「はい、それで結構でございます」その寛容さが日本の宗教の懐の深さであることを改めて認識しました。また、建物の四隅にお塩と切麻(きりぬさ)と呼ばれる小さく切った白い紙を宮司様が撒いてお清めをします。参列者も一緒に清めていただいたようで、身も心も洗われた思いでした。
工事関係者を除いてほとんどの人たちが、このような式典には初めての参列でした。特に八海山信仰は霊験あらたかで知られていますから、一同興味深くかつ神妙に式に参列していました。安全に無事に工事が終わることを皆で祈り30分ほどで安全祈願祭は終了しました。
5月30日(月)からいよいよ工事が開始です。(R記)
すっかり春になりました。当地の桜も今満開です。昔異国を旅した時、春は黄色から始まることを知りました。しかし新潟の春は、梅にレンギョウ、桜に水仙、コブシに木蓮・・・時期の色とりどりの花がほぼ同時に咲くことが多いようです。春が一気にやって来て、気持ちが追いつく前に次の季節が来てしまいそうで、何かいつも追い立てられるような気分のこの季節です。
冬から春へと季節は確実に移ろっていますが、仕事の方は変化に乏しい日々です。いつもの年なら展示会やら、デパートの実演やらで1年中忙しく動いていましたが、この3年はすべて自粛。工場見学もお断りし、お客様をお迎えすることもほとんどなくなりました。ヤスリは季節で売れるものではありませんので、次のシーズンが来たから売り上げが伸びるというものでもありません。ひたすら景気の回復を待ち続けたこの3年の月日は長かったですね。いつまで続くのでしょうか。
そんなダルな毎日ですが、いくつかお知らせできる出来事がありました。1つ目は、「踵ヤスリ 誉」がジャパン・ツバメ・インダストリアルデザインコンクールにて「審査員特別賞」を受賞したこと。3月25日、目立て担当の工場長とデザイナーさんとの3人で授賞式に出席してきました。このコンクールでの受賞は2回目。授賞式は何度経験しても気分は高揚します。前回4年前は「初爪」がグランプリ受賞の栄に浴しました。次は再び1等賞を!!と、心に(小さく静かに)刻みました。
2つ目は、第二工場の建設が決まったことです。現在の工場は昭和42年に創業時の場所から移転して建てられました。17年前に初めて大掛かりなリフォームをし、それ以降機械が増えるたびに少しずつ増改築を繰り返してきました。昭和42年当時は今ほど車社会ではありませんでしたので、自動車通勤もほんの一握りでした。今や自動車通勤は当たり前の時代ですから、当然駐車場は足りません。駐車スペース確保のため、庭が少しずつ少しずつ削られ思い出の庭木も随分と減りました。また昨年末、頼りにしていた外注さんがとうとう引退することになり、彼が長年使用していた機械を譲り受けることになりました。しかし今の工場では置く場所も増築するスペースもありません。そこで、徒歩3分ほどのところにちょうど空き工場があったので入手することにしたのです。2つの工場をどうやってスムーズに運営するか。誰を配置するか。危険やサボり(!!)をどうやって防止できるか。そもそも費用が工面できるのか・・・問題は山積みですが、「賽は投げられて」しまいました。工事の状況は、実況中継としてこのコーナーで随時ご報告したいと思います。
かくして、ようやく柄沢ヤスリの季節は動き始めました。(R記)
今日とてもうれしい電話が2件ありました。電話の主は、お二人とも某出版社の通販冊子からシャイニー爪ヤスリをお買い求めになった方でした。お一人目は大阪の方。「少しお伝えしたいことがあって・・・」と遠慮がちに話を始められました。静かなお声だったのでクレームだったらどうしよう、と少し身構えてしまいました。「あまりに使い心地が良いので、ぜひ直接この感動をお伝えしたくて」とお話は続きました。「もう50年以上お寿司を握っています。お客様に指先を見られる仕事なので爪にはとても気を遣います。何か良い道具がないかと探しているときに、通販冊子でお宅の爪ヤスリを見つけてこれだ!とピンときました。使ってみて、予想した以上に使い心地が良くて感動しました。実はリュウマチを患っていて、爪に良い道具がなかなか見つからなかったのです。これからも長く使い続けていきます」「ただし、一つだけ注文したいです。私の手には柄が硬くて滑って持ち辛いので、手に優しいグリップが付いたらいいですね」とアドバイスも頂きました。 お二人目は岡山の方でした。数年前に同じ冊子でシャイニーを見つけて、それ以来ずっと憧れていらしたそうです。迷った挙句についにこの度ご購入されました。「興味のない人にはこの価値はわからないだろうけど、さすがは made in Japan! 技術が素晴らしい!! 爪ヤスリが好きでドイツのヘンケル社製を何本も持っているけれど、全然削れ方が違う。日本の技術、なんて素晴らしいのか」 その時ちょうどシャイニーの目立てをしている98歳の職人が通りかかりました。電話の内容を伝えたら、彼女は涙ぐみました。近頃「オレ(新潟の年配の女性は自分のことをオレという人が多いのです)なんかがいつまでも仕事に来ていていいんだろうかね」などど気弱なことを言います。「貴女がいるから、皆が頑張れるのです。私たちの目標ですから」といつも同じ言葉で励まします。しかし作り手にとっての何よりの励みは、このような使ってくださる方の喜びの声が一番です。地味なヤスリの仕事ですが、職人たちの努力を誉めていただき光栄の極みです。大阪の牛島様、岡山の松本様、誠にありがとうございました。今晩はちょっとワインで乾杯でもしようかな。(R記)
もう3月です。月日が経つのが早いのは歳のせいばかりではなさそうです。世の中のすべてのスピードが速くなっている気がします。
先週末、コロナワクチンの3回目の接種を受けました。2回目で結構つらい思いをしましたので、「あれを乗り越えているから、次は何があっても大丈夫!!」と高をくくっていたところ・・・・・2回目をはるかに超える過酷な副反応でした。まず、打った瞬間注射が痛い!!思わず「かなり痛い注射なんですが」と打ち手の看護師さんに訴えてしまいました。15分の待機中も腕がズキズキ。嫌な予感通り、早々と8時間後に熱が出ました。37.7℃⇒38.8℃⇒ついに39.3℃。季節性のインフルエンザに罹った時の様に、寒気がするは、体中の節々が痛いは、だるさに身の置き所がないは・・・本当に最悪でした。仕事を1日休み、その次の日はちょうど休日だったので都合2日間、「これは病気ではない。必ず時間が経てば治る」と自分に必死に言い聞かせながらじっと布団の中で耐えました。出勤した朝、朝会でしっかりと体験談を話しました。「モデルナを打つ方はどうか覚悟して」と。
しかし、ここまでコロナウイルスが猛威を振るうと、ファイザーとモデルナどっちが良いとか悪いとか、副反応が出るのは若いからとかそうでないとか、巷間言われてきたことは全てどうでも良い気がしてきました。とにかく罹らない方法を優先しなければ、と熱に浮かされながら出した結論でした。今日も社員の一人が接種を終えて無事帰ってきました。皆様もいたずらに恐れず、どうか最善の方法をお取りください。(R記)
今年は寒さが厳しい冬になりました。そこに追い打ちをかけているのが灯油の高騰です。雪が降り始めてから、灯油の使用量は気温と反比例するように増え続けています。「節約を!!」と毎朝呼びかけたり、社員の発案で始めた「給油ノート」に各自の給油量を記入したり、と努力はしていますが目に見えた効果はありません。そこで一計を案じました。近頃テレビのCMで良く見聞きする「温熱ベスト」を導入することにしました。事務方二人で、町のホームセンターへ出向き早速試着してみました。思ったより軽くて温かです。とりあえず2着購入して、サイズの確認を全員に聞いて回ったところ、「寒くないからいりません」「ホッカイロをしているからいいです」「寒いのは足なので、背中部分は必要ありません」「ストーブのそばにいるので、暑いくらいです」etc・・・・・。 おいおい、温熱ベストを導入する意味を勘違いしていないかい?目的は燃料の節約だけど?・・・やはり偏屈な職人集団。素直ではありません。そのくせ、珍しいものには興味津々で皆でこっそり試着はしていた模様です。結局「使います」と申し出たのは事務所の3名と工場の1名だけ。灯油の使用量の方は一週間(5営業日)で200リットルまで跳ね上がり節約の兆しなし。灯油タンクの目盛りをチェックしながら気を揉む毎日です。
17・8前の原油が高騰した年のことです。灯油も前年比50%以上値上がりしたように記憶しています。そのころ私が在職していたのは全学年24学級の大規模な学校でしたから、おそらく数千万円単位で経費が増加すると試算したのでしょう。節約の呼びかけとともに、17時になると事務長が各階の灯油の元栓を閉めて回っていたことを思い出します。「皆さん、早くお帰りください」との声なきプレッシャーを感じたものでした。
現在温熱ベストの着用組4名はそれなりに快適に過ごしています。事務所のファンヒーターの設定温度は外が凍る日も「18℃」。SDGsとは程遠いわが工場ですが、せめてお客様に一番近い事務所だけでも努力は続ける決意です。 (R記)
わが社の看板商品の一つに「プラスチックヤスリ」というヤスリがあります。昭和40年代の初め頃、地場産業の一つであったプラスチック製品のバリを取る目的で先代社長が開発したヤスリです。特徴は「単目」であること。一般的なヤスリは上目と下目と呼ばれる2本の目が交差した「複目」が主流です。先に目を立てる下目は、横滑りを防ぎ削り粉を排出する働きをします。上目は主に切削を担います。それに対して目が1本の単目ヤスリは、削り方によっては横滑りし、目詰まりしやすいのが弱点です。しかし単目の1本1本の目が小さな鉋(カンナ)の刃のような働きをして、素材を1/200~1/100㎜単位で削り、その表面を滑らかに仕上げることが可能なのです。ヤスリの表裏上下四面が利用できるように目が立ててあるのは利用者の経済面を考慮してのことでしょう。さらに「バンカット」と呼ばれる表面処理が施してあるため、刃先が鋭利で切れ味が抜群なことも50年以上人気を保っている秘密だと思われます。
このプラスチックヤスリには「スキヤキヤスリ」というニックネームがあります。どこでどうしてスキヤキになったのか、さっぱりわからないことも逆に愉快です。かつての目的であったプラスチック製品のバリ取りは、今や金型の精度も上がり3Dプリンターの時代になって昔ほど利用価値もなくなったように感じます。では、誰が使っているか?実は「プラモデル愛好家」、特に「ガンプラ愛好家」の方々に評価を頂いているのです。少々面映ゆいですが、彼らの間では『柄沢ヤスリの「スキヤキヤスリ」は垂涎の的』なんて言われていると聞いたことがあります。「スキヤキヤスリ」がもっと大量生産出来たらわが社の経営も安泰なのですが、実は材料の入手から、目立て・焼き入れ・バンカット・・・数ある製品の中で一番手のかかるヤスリがこの「スキヤキ」なのです。数年前、作っても作っても失敗続きで1年近く欠品したことがありました。大学の先生や、県の工業技術センターの研究者まで巻き込んで原因を究明しました。材料と焼き入れに重大な問題があることがわかるまでの1年、日本中の問屋さんや小売店から矢のような催促が続きました。
そんな厄介な「プラスチックヤスリ」ですが、実はもっと特別な場所でも使われています。それは弦楽器工房です。一昨日も1本の電話がありました。以前東京のチェロ製作者の方から「イタリアのクレモナに250軒のバイオリン工房があり、1000人の職人がいるが柄沢ヤスリのプラスチックヤスリを知らぬ者はいない」と聞かされて涙がこぼれたことを別のコーナーで書きました。一昨日の電話の主にもその話をしたら、「僕もそのクレモナにいるのです」「弦楽器製造者にとって、今世界中を探しても御社のプラスチックヤスリを超えるものはない」となんともありがたい言葉を頂きました。私たち職人は、製品が手元を離れた後どなたがどんな目的で使ってくださっているのか、ほとんど知る術がありません。「切れが悪い!」とのクレームで落ち込むことはありますが、直接お褒めの言葉を頂くなどほとんどないことです。油にまみれた工場で作られた工具が、あの美しい流線形を描く弦楽器作りに貢献しているなど想像だにしないことでした。先人たちが種をまき、職人たちが繋いできた技術が自分たちの知らないところで実を結んでいたことを知らされ、嬉しさや誇らしさと同時に、技術を今後に伝承することの責任も感じた1本の電話でした。 (R記)
「1月7日」は何の日かご存じですか?
・七草の日 5節句の一つで、朝「七草粥」を食べて祝う風習です。当地新潟では七草粥の習慣はありませんが(お米が豊富なので草をわざわざ食べない、とか雪に埋もれる雪国の正月にそもそも草はないとか、考えられる理由は様々)一番有名な風習ですね。
・七日正月 元旦から始まった正月がこの日で終わり、お飾りの松を外す日。この日までを「松の内」と言います。
・爪切りの日 新年になって初めて爪を切る日で、「七草爪」とも呼ばれるそうです。この日にその年初めての爪切りをすると邪気を払うことができて、一年間風邪を引いたり病気になったりせず健康で過ごせる、と言われています。
ところで、わが社には「初爪~HATSUME」というネーミングの爪ヤスリがあります。台座がついて体の不自由な方にも負担なく使っていただける画期的なヤスリです。実はこのヤスリの名前が「七草爪」に由来します。新商品が出来上がった時、名前は「はつめ」にしようと決めていました。新潟の方言で「器用な、器用な人」を意味します。どなたにも無理なく器用に使っていただきたいという思いを込めました。しかし、あるデザインの権威から「商品のパッケージやネーミングは、見ただけで聞いただけで商品がすぐにイメージできるものでなければならない」と教わりました。新潟弁の「はつめ」は今や地元でさえ死語に近くなっています。皆で知恵を絞りました。その時見つけたのが「七草爪」の風習でした。その年初めて爪を切る⇒一年間健康でいられる⇒すなわち一年間幸せでいられる。すぐに「初・爪」の漢字を使うことに決まりました。パンフに「新潟弁のはつめ」と「七草爪」の意味を添えました。評判は上々でした。「すがすがしい」「ちょっとなまめかしい」「はつめがこんな漢字だなんて初めて知りました・・・(いえいえ当て字です)」 わが社にはもうひとつ『誉~HOMARE』という名前の工業用ヤスリがあります。こちらも他にない機能性が評判のヤスリです。漢字は表意文字ですから、たった一文字でも作り手の思いをこめられるので、気に入っています。
さて、全く話は変わります。「はつめ~器用」の話です。私の指は細くて長いのですが、爪は短くてちんちくりんです。特に親指の爪は縦より横が広いちょっと潰れた爪です。こんな爪の持ち主を当地では「はつめだ~器用だ」と言います。しかしそれはきっと慰めでしょう。だって、私本当に不器用ですから。98歳のベテランの指導を仰いで「目立て」の修行をしましたが、修行後一度も声がかかりません。仕上がったヤスリは我ながらひどい出来でした。中学校の家庭科でワンピースを縫った時、見かねた先生が主要なところをすべて縫ってくれました。着られないものができそうだったのでしょう。高校入試の直前、なぜか女子の間で手袋を編むことが流行りました。私も挑戦しましたが、友人に「あなたは勉強していなさい。私が編んであげます」と取り上げられてしまいました。何しろ中一の授業で初めて編んだ手袋の点数はクラスで最低点でした。当てにならない言い伝えもたまにはあるもんだなぁと、「はつめ」と言われ続けた親指の爪をつくづくと眺めています。
本日は「七草爪」の風習に倣って、今年初めて爪を切りました。もちろんベテランの手になる爪ヤスリで整えることも忘れてはいません。自社製品ながらその切れ味に感動です。コロナに負けず今年一年健康で良い年にしたいと思います。(R記)
皆様、明けましておめでとうございます。良い年をお迎えのことと思います。
昨年はどんな年でしたか?振り返っても、コロナ以外に思い出す出来事が少なかったのはさみしいことでした。でも社員一同健康で無事に新年を迎えられたことを喜びたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、年末に書きたかったけれど雑務に忙殺されて書けなかったちょっと恥ずかしいエピソードを暴露してしまいましょう。恥ずかしすぎて新年早々に書く話ではないのですが・・・。
実は社内には「携帯電話禁止」のプレートが2枚も貼ってあります。そう、仕事中の「携帯電話」の私用のことで、年末ちょっと社内がギスギスしてしまいました。わりかた最近、ガラケーからスマホに変えた一人の社員がスマホにはまってしまったのです。私自身は「携帯は緊急時に使うもの」と考える今時「化石」のような人間なので、スマホに夢中になっている人をいつも冷めた目で見てきました。例えば、レストランで2人で食事をしていて2人ともそれぞれのスマホをいじっている様などをしょっちゅう見かけますが、少し異様ではありませんか?なんて言っているのは「化石」の私ばかりで、スマホとはそれだけ人を夢中にさせる機器なのでしょうね。そんなスマホを仕事中にも離せない社員の行動が問題になりました。前にも書きましたが、ヤスリを作る作業は分業制で、それぞれの仕事は一国一城の主のようなところがあります。各自がその時々で作っている製品が違いますので、その人間の仕事が遅ければその製品の仕上がりが遅れるだけのことで、お客様に怒られる以外他の作業に大きな影響はありません。いい歳をした大人ですから、自分の行動に後ろめたさがなかったはずはありませんが、スマホの中毒性には勝てなかったようです。他の社員からの不満の声が相次ぎ、とうとう社員全員で会議を持つことになりました。皆で「就業規則」を読み返し、罰則規定を確認し合い、対応を協議しました。そして決まりました。他の会社でしたら、当たり前すぎることで恥ずかしい限りですが書きましょう。
①就業中は使用禁止 ②朝来たら、カバンの中か新しく準備した収納ボックスの各自の引き出しにしまう ③家族が病気等で緊急に連絡を取る必要があるときは許可願いを提出。ホワイトボードに張り出す。
1ヶ月経ち、今のところ皆しっかりと規則を守っているようです。
思えば教師時代、授業中に使用が見つかった生徒の携帯を何台取り上げたことでしょう。「放課後まで預かります😠」「お願いだから、着信だけ見せてください🥺」・・・・・毎日のように繰り広げられたこんなやり取りが懐かしいです。
今日1月4日は仕事始め。「今日は誰も私語をせず、とても静かなんですけど・・・」とは工場の責任者の声。いつも賑やかな工場が静かなのも逆に拍子抜けなのですが、新年にあたり社員一同襟を正して粛々と仕事を進めていると信じたいと思います。
こんな柄沢ヤスリですが、本年も頑張りたいと思います。どうぞよろしくお引き立てをお願い申し上げます。(R記)
先日、駅前交番のお巡りさんの巡回訪問がありました。「何かお変わりはありませんか?」という一通りの質問の後、「私、あの98歳の職人さんの大ファンなのです」と話が始まりました。彼の県外に住むおばあちゃまには「初爪」を、ご両親にはそのベテランが作った「シャイニー爪ヤスリ」を送って喜ばれたそうです。そして「過去に、私たちの同僚が失礼をしたようで」と言われ、一瞬「ン?」と考え込みましたが、そういえば 10年以上前の出来事を「what's new?」のコーナーで書いたことを思い出しました。彼もそれを読んでくれた様です。
お読みになった方は覚えておいででしょうが、顛末を簡単に書きましょう。98歳のベテランがまだ80代の若かりし頃のことです。 今回と同じように会社に巡回訪問に来られたお巡りさんが「今、おばあさんが出ていかれましたよ」と言いました。そこにいた全員が誰のことか?と本気で考え込みました。今、会社には社員しかいないはずだし、さて・・・?ふと時計を見て、気づきました。彼女が帰る時間だったからです。そのころ教師を辞めたばかりだった私は、昔取った杵柄とばかりにその若いおまわりさんに説教をしました。「あなたのおばあさんでもないのに、女性をおばあさん呼ばわりは失礼でしょう」と。その時の彼の反応がどうだったかは、ちっとも覚えていません。こちらこそ失礼をゴメンナサイ。
そうそう、彼女をおばあさん呼ばわりされて怒ったことがもう一つありました。これも「what's new?」のコーナーで書いたことですが、朝のNHKニュース「おはよう日本」で彼女が取り上げられたとき、タイトルが「ヤスリおばあさん」と出ていました。花咲か爺さんでもあるまいし、ヤスリばあさんとは何事か!NHKの見識を疑う!!と「what's new?」内でカッカと怒ったものでした。数年後同じNHKの「ひるブラ」という番組に生放送で出演することになり、打ち合わせでNHKの皆さんが来られました。急に「ヤスリおばあさん」のことを思い出した私は再び彼らの前でこぶしを振り上げ、当時新潟放送局にいた佐藤俊吉アナウンサーに「まあまあ」となだめられました。
こんなエピソードが数多くあるのは、彼女がバリバリの現役職人であり続ける何よりの証拠ですね。98歳、今日も元気でした!(R記)
10月18日(月)プロのカメラマンによる工場の撮影がありました。
燕三条地場産業センターの事業で、「燕三条の女性職人」にスポットを当てた企画です。わが社は16名中9名が女性。さらに98歳の「働く女性」のお手本のような職人がいますので、「燕三条のPR」のためならと本人たちの了解を得て快く引き受けました。
女性たち9名の中から撮影のモデルとなる代表2名を選びました。一人はもちろん98歳のベテラン。そしてもう一人は目立て職人歴2年目の若手女子。その若手女子は、かつて工業用のミシンの仕事に携わっていましたので、機械の扱いにも慣れていますしベテランの技を吸収しようと頑張る努力家です。さらに今回のテーマが「美しい道具をつくる、美しい人」ですから、まさに代表にふさわしい女性といえるでしょう。実を言えば、わが社のインスタグラムでこの2人が登場した時は、「いいね❤」や「リーチ」の数が格段に違うのです。今や2人ともわが社の看板娘です。
令和3年12月22日(水)~12月27日(月)東京都渋谷区表参道神宮前「新潟館ネスパス」にて、燕三条地域で撮影された「美し人」のパネルや動画が展示されます。もしお近くに行かれることがあったら是非覗いてみてください。
ところで、わが工場には女性が多いことをたびたび驚かれます。しかしずっと燕という町に住んでいる者にとって、女性が工場で働いていることは別段珍しいことではありません。もともと燕は住まいと工場が一緒の「家内工業」が主の町でした。どこの家も父ちゃんも母ちゃんも一緒になって一生懸命稼いで今の燕の礎をつくり、それがずっと燕の活気の源でもあったからです。子供のころ、夜なべで機械が動いている音が近所のあちこちの家から聞こえてきたことをよく覚えています。燕の有名な「背油ラーメン」がそんな職人さんたちの夜食として腹を満たしたことは有名な話です。ヤスリ屋も例外ではありませんでした。また、ヤスリは「鉄工ヤスリ(大型)」「組ヤスリ(小型)」「両刃ヤスリ(ノコギリの目立て用)」等々種類も形も目の細かさも様々ですから、男性は力のいる大型ヤスリの目立てや焼き入れなど力仕事を、女性は小型で繊細な目のヤスリの目立てを、と女性も大事な働き手でした。わが社の昭和20年代の慰安旅行の写真でも女性職人が大勢写っています。そういえば小学校の、毎月あった授業参観に来るお母さんたちって少なかったなぁ。燕のお母さんたちはみんな働いていましたから。昭和3・40年代のことですが、バスの中で東京の営業マンと思しき人が「新潟の女性はみなズボンをはいているんですね」とひそひそと話していたとか。だって働く女性ですから。こんな街に生まれ住んでいると、「働く女性」にスポットをと言われても実は「何を今更」という気分がないでもありません。でも、女性の力が強くなったことだけは確かです。だってわが社、いろんなところで女性が仕切っていますから。(R記)
コロナ第5波の勢いがようやく弱まりつつあります。まだまだ警戒を緩めるわけにもいきませんが、それでも誰もがホッとしていることは確かです。薬剤師の友人が言うには、これだけ感染者が増えれば「無症状」で感染している人も相当数いるはず。したがって知らず知らずのうちに抗体を持っている人が増えた結果感染者も減少したのではないかとのこと。もちろんワクチン効果もあるでしょうが、大勢の専門家の解説より一番腑に落ちた分析でした。全く逆のことがインフルエンザにも言えるそうです。昨年はインフルエンザの感染者が極端に少なかったため、抗体を持つ人が減り今年はインフルエンザ大流行の予報が。わが社はすでに9月中に全員分のインフルエンザワクチンの予約を済ませています。「備えあれば憂いなし」8月のパソコンの故障で得た大きな教訓です。
さて、わが社のコロナワクチン接種状況です。先週10月7日、ついに全員が1回以上の接種を終了しました。本日現在で2回接種終了者が16名中12名、2回目待ちは来週月曜が3名、月末が1名となっています。燕市の2回終了者は、数日前にすでに80%を超えていましたので少しだけ遅れをとっているかもしれません。副反応も本当に人それぞれでした。ちょっと腕が痛むくらいでケロッとしている者がいるかと思えば、生まれて初めて40℃以上の熱に苦しみましたという者、書いてある副反応が全部出ましたという者・・・それぞれの体の中で一体どんな反応が起こっているのか、不思議です。
ところで、8月以降に接種を受けた社員たちは個別接種の方が多かったのですが、初期のころに集団接種を受けた私の場合とあまりに対応が違うので、ちょっとだけ自分のコロナワクチン接種体験を書いてみたいと思います。
1.係員の指示で入り口で検温・消毒(これは今や常識ですね)
2.ながーい廊下に到着順に一列に座らされて書類がそろっているかのチェック。杖をついてやっと歩いている老婦人は、到着が遅かったためながーいの列の後尾まで歩かされていた。自分もあまりに緊張していて「代わります。私の席に座ってください」と言えなかったことを、そこまで気が回らなかったことをいまだに悔いている。
3.前から5人ずつ案内されて、2順目の場所へ。身分証明書と書類の照合。
4.3順目のブースの前まで歩いて本日の予定表が渡される。密にならないよう順路間の距離はかなりある。年配の方や足の悪い方は大変。
5.4順目でようやく「第1回目の問診」
6.横に並んだ椅子に案内されて、5順目は医師による「第2回目の問診」。待っている間、前の人が終わるたびに椅子を横移動。ここも足腰の弱い人は大変だなぁ。1回目の問診と全く同じことを聞かれる。さっき同じこと言いましたけど。
7.いよいよ衝立で仕切られた6順目の注射ブースへ。まだ打ち手の姿はない。数十秒待ってようやく打ち手がバックヤードから現る。打ち手が現れるまで緊張で体はガチガチ。「少し力を抜いて」と注意を受ける。ズシリと重たい鉛が打ち込まれたような感覚。
8.7順目のブースまで移動して、待ち時間と次回の予約日を書いた用紙を渡される。
9.指定された待ち時間まで、8順目の待機場所へ移って大きなデジタル時計とにらめっこ。揃いのベストを身に着けた係員が何度も「大丈夫ですか?」と聞いてくる。私、そんなに顔色が悪いのかなぁ、とかえって不安があおられる。
10.念のため指定時間より5分長く待機し、9順目の最後のブースへ。副反応や副反応が起きた時の対応を説明され終了。
会場には少し早く着いたので、この間およそ1時間。会議や集会で2・300人は入る会場を結局一回り以上移動した。
《私の結論》次回は絶対に集団接種は嫌だ!!熱が38℃以上も出たのはこの会場の緊張のせいだ!!!
ほかの集団接種会場はどうだったのでしょうか?機会があったらぜひ聞いてみたいものです。(R記)
10月になりました。
例年なら秋は様々なイベントのため、1年中で一番忙しい季節のはずでした。工場の祭典・ものつくりメッセ・子供たちの職場見学・春の展示会の準備・・・etc。しかし昨年からは静かな秋になりました。ブツブツと文句を言いながらも、社員たちは結構そのイベントを楽しんでいた様子でした。普段自分たちが作っている製品がどのように評価されているのか、誰がどのような目的で使ってくださっているのか、地味な基礎工具であるヤスリの作り手のところに、直接お客様の声が届くことはそれまでありませんでした。ところが様々なイベントに参加することで、来社されるお客様から「こんな風にヤスリって作られているのか。初めて知った」と感嘆の声を頂いたり、「あまりに細かい作業で感動した」とか「作業の様子がとても楽しかった」とか「皆さん親切で会社の雰囲気がとてもよかった」とか褒めていただいたりすると、実は大きな励みになっていたようです。 でも今年は静かな秋です。皆淡々と仕事に励んでいます。
そんな中、いくつかの新しい会社とのお付き合いが始まりました。「仕事を辞める」と何件かの事業所から急な連絡をもらって慌てた話は前にも書きました。いずれもヤスリ作りには欠くことのできない重要な仕事ですから、その技術を引き継いでくれる会社を探すのは、思いのほか難題でした。話をしただけで「そんな前時代的な仕事は、今は無理です」と断られたことも1度や2度ではありません。しかし幸運な出会いがいくつもありました。いずれも若い技術者や社長さんたちばかりで、頼もしいことこの上ありません。ベテラン職人の経験や知恵はもちろん大事ですが、それを科学的技術や根拠が裏打ちしたらそれこそ鬼に金棒です。この職人たちが引退したらどうなるのか・・・いつも不安を抱えながら来ましたので、今回の出会いは本当に大きな1歩となりました。 新規取引先はこれまでヤスリとは関わりのなかった方達ばかりですので、私たちにとっても新鮮です。新しい知恵、新しい発想。わが社に一番足りなかった新しい風が吹き始め、何か新しいことも始まりそうで少しだけワクワクしています。
静かな秋です。でもわが社の時は確実に動いています。(R記)
これまでに何度も書いていますが、やはり書かずにはいられません。98歳のベテラン、本当に元気です。
昨日9月20日は「敬老の日」でしたが、彼女ほどこの日が似合わない98歳もいないのではないでしょうか。
朝はまるでスキップでもしているような軽快な足取りで出勤します。「おはよぉっス」というのが昔からの彼女の朝の挨拶です。事務所にいる者たちを「そのTシャツいい色だね。よく似合うよ」とか「若くて誰だかわからねぇかった」などと、からかいながら工場に向かいます。その声の張りで彼女の今日の元気がしっかりとわかります。
8月の猛暑の朝ちょっとびっくりする出来事がありました。席を外していた私を他の社員が慌てた様子で呼びに来ました。「大変です。すぐに来てください」戻ってみると98歳のベテランが汗びっしょりになって、肩で息をしています。驚いて訳を聞くと、いつもは車で送ってくれるご家族と行き違いがあって、歩いてきたとのこと。外は朝からすでに30℃を超える猛暑。駐車場から会社の入り口まで移動する30秒でさえ社員皆参っているというのに、炎天下を帽子も日傘も持たずに10分以上歩いてきたというのです。今日はもう帰ってください!と皆で説得しましたが、「いえ、大丈夫です。仕事します」一息ついて汗が引いたのを待って、いつも通り機械につかまって仕事を始めました。なんという98歳でしょうか。
責任感・根性・職人魂・精神力・意地・・・すべてを持ち合わせたような人です。
昨秋から仕事は午前中だけになりましたが、逆にそれが彼女の生活に良いリズムを作ったようです。午前中集中して仕事をし、10時の休憩には必ずたっぷりのミルクと砂糖の入ったアイスコーヒーで一息入れ、家に帰ってゆっくりと昼食を取り、(たぶん)お昼寝タイムで仕事の疲れを取り、家事をし、ご家族との団欒の時間を持ち・・・本当に理想的な生活ですよね。
できたら2年後「100歳の現役職人」と皆で大々的にお祝いしたいのですが、時々「この年齢まで職人をこき使っている会社はひどすぎる!!」という書き込みをネット見つけるのです。でもそれを書いているあなた、絶対に間違っています。だって「年齢」の自覚が一番無いのが彼女自身なのですから。あの元気を見るにつけ「100歳の現役職人」もあながち夢ではない気がしています。(R記)
お盆明けに突然仕事を辞めた同業者があったことは前にも書きました。しかしその後にも「この仕事から撤退します」「今年中に区切りをつけます」と2件の連絡がありました。いずれもわが社にとっては大変深刻な問題です。
燕三条という地域は、地域全体が一つの「ドリーム工場」であることはよく知られています。それぞれの工場が技術を持っていますので、互いに助け合って製品作りが成立することがこの地域の大きな強みだと思っています。しかしそこには大きな弱点もあります。作業者の高齢化です。わが社もその問題でこれまで何度も作業工程が停止し、製造をあきらめかけた製品もありました。いずれはこういう時が来ることはわかっていても、現実のものとなるまで動かないのが人間の愚かさです。何度か同じ失敗を繰り返しました。思い切って国の補助金を利用して「人の手」に代わる大型のオリジナル機械を導入したのが7年前のことでした。作業効率は抜群に上がりました。1本1本の形や使い勝手が微妙に違ったりするファジーな面も、ある意味手作りのヤスリの良さでもあったのですが、今の時代それは許されません。機械のおかげで形は均一な製品に近づいています。
しかし、わが社のヤスリ製造工程の中で機械で出来ることは実はまだほんの一部です。重要な部分の機械化はまだほとんど進んでいません。そして、2日前「今年中で・・・」という話を聞かされました。あぁ、もっと早くにその技術を伝承しておくべきであった、今回も後悔先に立たずでした。本当を言えば、数年前からその職人にさりげなく技術を聞き出してはいたのですが、「このくらいの分量に、適当に〇〇を入れて・・・季節によっても時間はマチマチだし・・・」という塩梅で、絶対に詳細は明かしません。他の社員が手伝っても肝心なところは見せませんでした。やはり職人です。
今、その「職人技」に代わる技術探しに奔走しています。時代は変わっているのに、今回も完全に乗り遅れました。それでもまだ諦めてはいません。わが社の98歳のベテランはじめ技術の伝承者・生き証人はこの地域には残っているのですから。燕三条だから必ずできると信じて、社員皆の知恵を絞って新しい方法を模索中です。
でもやっぱり、深刻です。あぁ、頭が痛い。 (R記)
わが社にとって2回目のオンライン会議終了しました!!
今回も大事を取って、1時間も前からセッティングし準備万端でスタンバイしました。慣れた社員に聞いたら「5分くらい前に準備しておけばいいんではないですか」だとか。いいのです。とにかくしっかりと画面を通して話ができたのですから。一緒に会議に参加した社員も、1回目の私同様前日からドキドキして過ごしていた様子でした。
2年ほど前、外出先でオンライン会議に参加したことがありました。しかし、接続や音声調整に手間取り、さらに会議中に画像が途切れたり声が聞こえなくなったり、オンライン会議とはなかなか厄介なものだなぁと感じたものでした。それがたった2年でこんなにも簡単に操作ができるようになるとは、さらに「この私」が一人で画面の前でしゃべることができているとは、感動ですらあります。調子に乗って、通りかかった98歳のベテランを画面前に呼んで先方に紹介したり、次々と担当社員を登場させたり、会議中にもかかわらず物珍しそうにのぞき込む社員がいたり。緊張のほどけた後半は、ちょっとしたお祭り騒ぎでした。
パソコン関係に無知なおかげで、数年前にこんな失敗がありました。「NTTの〇×*(ここがよく聞き取れません)の者ですが、ギガ楽を導入しませんか」「ギガ楽って何ですか?」「Wi-Fiです」「無線LANで接続したプリンターがなかなか繋がらないのですが、それも解決しますか?」「ハイハイ。ではこの電話で契約ということで・・・」そうしたら数週間後にまた別な業者から同じ内容の勧誘が。私「すでに契約して機器も届いていますが」相手「それは解約したほうがいいですよ。うちのはタダになりますから。そちらは簡単に解約できます。ではわが社と契約いたしましょう」 そこで、最初の代理店を名乗る業者を探したのですがどこにも社名が見当たりません。NTTにも探してもらいましたが結局よくわからない問題のある代理店であることが判明しました。消費者センターにも問い合わせましたが、消費者センターは「個人」を救済する機関で「法人」は対象外。結局NTTと交渉して1つ目を解約することに。しかしですよ・・・・・皆さん!「解約」とは「料金を全額支払うこと」だったのです!!!2つ目の代理店にもすっかり騙されました。
私はこんな詐欺には絶対に騙されない、と自信を持っていたのですがかくも簡単に術中にはまるとは。新手の詐欺ですね。結局騙されて導入した2番目の「ギガ楽」は、インターネットを無料で使えて社員たちを喜ばせることになりました。しかし、なぜか社内にはいくつかの「Wi-Fi」が交錯していて、無線ランLANで繋いだプリンターはしばらく混乱したままでした。昨年NTTのシステムが変わって、「Wi-Fi」を3年以上利用した場合は解約金なしで解約できると連絡が入り、すぐに解約したことは言うまでもありません。社員たちはがっかりしていましたが。
とまぁ常々こんな具合ですので、たかが「オンライン会議」ですがわが社にとってはちょっとしたイベントになりました。 (R記)
今週はちょっと特別なことがありました。
〇初オンラインでインタビュー 東京の女子大生の方が、「燕三条地域の金属加工技術の継承」について研究し卒論を書きたいと問い合わせをくださいました。最初は来社してインタビューというご希望でしたが、このご時世ですので丁重にお断りしたところ、「オンライン」でのインタビューと相成りました。何しろパソコンにはからっきし弱いので、「Zoom」とやらもどんな仕組みかさっぱりわかりません。外から応援を頼んでインストールし、練習を重ねて当日を迎えました。会議の始まる1時間も前からパソコンの前に座りましたが、ソワソワして落ち着きません。開始の10分ほど前にどうやらそれらしい画面が動き出し、時間ぴったりにとてもかわいらしいお嬢さんが画面に登場しました。声も画面もとても調子よくインタビューが始まって5分後、相手のお嬢さんが遠慮がちに「あのービデオになっていないようなのですが、ビデオにして頂いてよろしいでしょうか・・・・・」。まぁ、大きな失敗はこの程度でしたので良しといたしましょう。
インタビュアーは聡明な学生さんでした。事前に送られてきたインタビュー内容はとても的確で的を射ており、地場産業の抱える問題点や将来性にも言及していて、非常に答えやすい質問事項にまとめられていました。私は頭が悪いので抽象的な質問や精神論的な問いは答えに窮します。経験したことしか答えられないのは、いかに普段ものを考えていないかの証拠でもありますね。何はともあれ無事に初オンライン会議が終わったことに安堵しています。
その後新しいお取引先からオンライン会議の依頼がありました。「Zoomならできます!!」と胸を張ってしまったのですが、大丈夫でしょうか・・・・・? 実を言えば不安でいっぱいです。
〇シャインマスカット 山梨のお取引先から「シャインマスカット」が送られてきました。箱を開けたら大粒のシャインが6房も。覗いた女子社員たちが歓声を上げました。「何事も平等に」が、わが社のモットーですので早速家から秤を持ってきて一人”285g”ずつ公平に分けました。 これまでの人生で私には3度目のシャインマスカットです。何しろ高級品ですのでとても自分からは手が出せません。いずれも到来物でした。 いやぁ、なんとも美味。一粒一粒が宝石のようでした。広島県と山梨県で品種改良されて誕生した葡萄で、山梨はシャインマスカットの一大産地だそうですね。皆であまりに興奮して、インスタ用の写真を撮ることさえ忘れてしまいました。見事な房だったのに。仕方がないので、大事に食べてまだほんの少し残してあったシャインを先ほどスマホで撮りました。ここに貼り付けようと何度もトライしましたが「ログインからやり直してください」と出てくりばかり。えぇい、めんどくさい。言うことを聞かないパソコンほど腹の立つものはありません。残念ですが諦めました。機会があったら、またいずれ。 (R記)
今日は年1回の「棚卸」の日です。
恥ずかしい話ですが、8年前商品庫をリニューアルするまでわが社の製品は全く整理というものができていませんでした。同じ系列のヤスリがあちこちに散逸し、置き場所に”精通”した人間にしか「在りか」がわからないような有様。注文が入って「在庫がありません」と断った後、「やっぱりありました」なんてことは日常茶飯事。逆に在庫が潤沢にあるのに注文してしまい、在庫が増えすぎたり。いやはや、こりゃぁダメだ!!と、新しい商品棚をあつらえて商品庫を整理しました。片付け上手な社員が入社したこともあって、今やヤスリは種類別にすっきりと整理され誰が見ても在庫がはっきりとわかる状態になっています。おかげで、それまで1日かかっても終わらなかった「棚卸」の作業が半日もかからずに終わるようになりました。おまけに今年はクーラーの効いた快適な環境での作業ですから、さらに短時間で終了しました。いつもの年なら「あっちぇえ(新潟弁で暑い)」と文句たらたらの社員たちも黙々と作業を終えました。
そんな作業の途中で、古いヤスリに目が留まりました。マークを見るとわが社のものではありません。よくよく目を凝らすと、30年以上も前に廃業した他のヤスリ屋さんの製品でした。N社・T社・H社・・・懐かしい社名が次々と出てきます。燕市がヤスリの町として隆盛を誇っていた時の同業者です。彼らが廃業した時にわが社が引き取ったヤスリでしょう。
実はお盆明け、仕事を辞めますと連絡をもらった同業者が2社ありました。あまりに急な連絡で、まだその解決がついていません。パソコンが壊れたのも、その同業者に関わる新しい取引先からのメールに添付された書類を開くのに往生したせいもあるのです。いまだにインターネットエクスプローラーを使っているせいで、添付書類の文字が化けたりパスワードが入らなかったり。パソコンに無知なのにガチャガチャいじっているうちに壊れたという訳です。今回連絡をもらった2社も、N社もT社もH社も・・・どんな思いで廃業を決意したのか。古いヤスリを眺めながら身につまされ、しばし感慨にふけった今年の「棚卸」でした。(R記)
パソコンが故障しました!!電源スイッチを入れても、うんともすんとも言いません。日々の売り上げや社員の給料情報等すべてが入っています。時は月末。月末締めの請求書が作れない。給料計算ができない。おまけに8月はわが社の決算月。どうしよう。頭が真っ白になってすぐにパソコン修理店に駆け込みました。
診断結果は「おそらく基盤が壊れているので、修理に3週間はかかるでしょう。データも助かるかどうか保証はない。もしデータを取り出せればラッキーと思ってください」・・・・・パソコンは他の社員が使っているものをとりあえず使えるけれどデータは・・・。使用している会計ソフトの会社にメールを送って「データをそちらで保存していませんか?」と問い合わせしましたが、「バックアップはこのような時のために自分で取っておくもので、当社にはございません」との返事。これまで故障も事故もなかったので、実はバックアップはこの2年間取っていませんでした。危機管理が甘かったことを本当に後悔しました。
こうなったら徹夜してでも2年分のデータをすべて作り直すか、と腹をくくったところで「もしかしたら2・3日で直せるかもしれません」と連絡が入りました。まさに「地獄に仏」でした。データも無事でした。給料計算も先ほど終わりました。ここ数日パニック状態でしたから、今こうして,穏やかにこのコーナーを書けるようになったことの喜びをひしひしと感じています。
おかげで大きな教訓を得ました。「備えあれば憂いなし」
皆様もどうかお気を付けください。(R記)
5月から3ヶ月間介護休暇を取っていた社員が今月26日から復帰しました。
「核家族」と言う言葉が登場して久しいですが、家族の在り方や形態はひと昔・ふた昔と比べて本当に様変わりしています。家族をどのように看病するか、介護するか。家族の人数が少なくなった今、本人も含めて誰かが決断しなければならない現実はどの家庭にもきっとあることでしょう。
私個人は「介護休暇」に関して、ちょっとつらい思い出があります。20年近く前、父が病に伏し母が一人で父を介護していました。しかし介護疲れから母までもが心臓発作で倒れてしまいました。結局離れた場所に住んでいた私が仕事をしながら二人を介護することになりました。「職場・父のいる自宅・母の入院先」と片道50㎞の道を往復する毎日は、心身ともに限界でした。思い切って所属長に「介護休暇を取りたい」と申し出たところ、「気の毒だとは思うが、誰にだって事情はある」と受け入れてもらえませんでした。その女性所属長は、家庭と仕事とを立派に両立させ管理職まで上り詰めた努力の人。さらにまだ介護休暇の制度も確立されていない頃だったと思います。当時の世情から考えたら所属長の返事は普通の対応だったのかもしれません。その後は、まるで光の見えないトンネルの中をさまようような日々がしばらく続きました。我ながらよく耐えたもんだと今だから思えます。まだ、若かったからでしょうか。
わが社の社員たちもいろいろな事情を抱えています。しかし誰にも事情はあっても、それぞれの事情はすべて違います。最近わが社は家族のために有給を取る社員が増えていますが、誰もそれを咎める者がいないのはやはり世の中の理解が進んできた証拠なのでしょうね。
ようやく16名のメンバーが全員集合し、社内も安堵感に包まれています。それぞれの居場所があるのはうれしいものです。 (R記)
コロナが収まる気配を見せません。ここまでの体験から、やはり一人一人が極力「うつらない・うつさない」努力をすることが今できる最大の対処法のような気がいたします。
さて、我が社のコロナワクチン接種状況です。総勢16名中、2回接種を終了した者5名、1回終了者2名、只今予約中4名、残り5名は住んでいる市町村がバラバラなので接種券は届いているようですが把握していません。我が市でも4月・5月はまるで「ワクチン狂騒曲」さながらの混乱で、社員全員の接種終了は予測不可能でした。しかしここまで社員とその家族が全員健康であったことと、ワクチン接種の目途が付いたことでようやくホッとしています。
ところで、私は真っ先に打ち終わりましたが、副反応に苦しみました。1回目はまるで五十肩のように腕が上がらず、2日間洋服の脱ぎ着もままならぬほど。2回目は38℃以上の熱が出て2日間寝込みました。報告に行った主治医の女性医師は「あら、あなた若いのよー」ですって!そういえば98歳のベテラン職人は2回ともぴんぴんしていて、全く副反応の気配なし。他の社員が「おかしいよなぁ、あの人どうしてなんともないんだろう?」と不思議がっていましたが、「齢だから・・・」とは絶対に言ってはなりません!!と釘を刺しておきました。
1日も早く元の生活を取り戻したいものです。(R記)
今年も酷暑でつらい夏です。でも、我が工場は今年大きな変化がありました。念願のクーラーが入ったのです。昨年はあまりの暑さに中途で仕事を打ち切った日が、8月だけで5日ありました。工場内は社員達の命に関わるような熱暑が続きました。コロナ禍で売り上げが上がらず財政的には厳しい時期でしたが、命には代えられません。思い切りました。3月に大型のクーラーを2台導入しました。
さすがに快適です・・・・いえ、しばらくは快適でした。工場には800℃で焼き入れをする焼き場があります。そこの環境だけは今まで通り室温50℃。若い焼き入れ職人が音を上げました。そこで焼き入れ作業は午前中だけにして、作業する時間は焼き入れ場の扉を開け放して冷気を分け合うように話し合いました。しかし、焼き場は焼け石に水、工場内は温度が急上昇。昨年まで冷房器具として使っていたスポットクーラーを、再びフル動員してブレーカーが落ちまくり。クーラーの真下にいるのに「暑くってやってらんねェ」「昨年のことを思えば少くらい我慢せい!」「もっと痩せろ!!」・・・クーラーをめぐってなんともかまびすしい日々でした。そんな時ふと目に入ったクーラーの設定温度が、なんと「17℃」!!思わず目が点・・・・。どうりで電気料が昨夏の1.6倍になるわけです。
幸いお盆の頃から気温も落ち着き、クーラーをめぐる攻防はなんとか収まりました。誰もが快適な職場って、難しいものですね。 (R記)
ひと月ほど前、我が社の爪ヤスリの利用者から「とても使い勝手が良い」と丁寧なお電話を頂きました。楽器をやっているのでオーケストラの他のメンバーにもぜひ推薦したいとのありがたいお言葉。楽器を尋ねたら”ハープ”だそうです。ハープ人口は他の楽器と比べて少ないのでもしやプロの方では?と、オーケストラ名を聞きたかったのですが生憎他の電話が入ったので断念しました。
ところがお盆前またその方からお電話がありました。なんでも大事にしていたその爪ヤスリが見当たらなくなったのでもう一本購入したいとのこと。お話のついでに思い切って「どちらのオーケストラでいらっしゃいますか?」と尋ねてみたところ、なんと「N響です!!」びっくり仰天、感激して思わず受話器を落としそうになりました。音楽に親しむ者にとって「N響」は雲の上のオーケストラ。その団員の方と直接お話ししているなんてもう感動以外の何物でもありません。他の楽器も同様ですが、特にハープ奏者にとって爪はとても大事だそうです。そのお手入れに我が社のカーブ付き爪ヤスリを重宝していること、ホテルでの演奏会の最後には美空ひばりの「リンゴ追分」をハープで演奏すること、「髪は栗色にしていてとてもハープ奏者らしくないのよ」・・・etc夢見心地でお話を伺いました。コロナ禍が収まったらぜひ生の演奏をお聞きしたいものです。
良いニュースのない昨今ですが、我が社にとっては久々にうれしい一本の電話でした。 (R記)
「初めまして」・・・・・と言うよりは、”what's New?”を終了して以来のご無沙汰でしたと言うべきでしょうか。「あんたの書くものは古くて長すぎる!!」と評判が悪かったので、新入社員が入ったのを機に”Instagram”とやらに広報の仕事は譲ることにしたのが昨年でした。でも、残念なことにその社員が半年で退社してしまい、なぜだかまた私がInstagramをやる羽目に。しかし写真をアップしながら「だからなんなんだ?」と言う思いが常に付きまといました。皆には内緒ですが。幸いPCに明るい社員が今年7月に入社してくれたので、Instagramは再びすべてそちらに任せることにしました。
そこで、このコーナーで誰にも知られないように「こっそり」と「ひそやか」に軽口・無駄口を叩くことにいたしました。Instagram以上に「だからなんなんだ?」と言われることは必至です。ですから、どうか読み飛ばしてください。ただ、ひたすらひっそりとひっそりと書いていきます。 (R記)