本日を持ちましてこの ”what's new?” のコーナーを終了いたします。これまで ”what's new?” にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これからは、若い社員が中心となって”Instagram”で柄沢ヤスリの様々な情報を発信してまいります。今後ともどうかよろしくお願いいたします。
ここ数日の出来事を散発的に書きます。
8月29日(土)は棚卸しでした。最近は商品管理の達人の社員が普段からきちんと整理しているので、昔に比べたらずっと楽になりました。数年前までは商品があちこちに散逸し、はっきり言って訳の分からない商品棚も数多くありました。以前の半分の時間で終わるので、残った時間は社内の大掃除です。実は秋に事務所を中心にリフォームを予定しています。目的は①トイレの増設(総勢14名でトイレ1つ。いつも満室でした)②事務所と応接コーナーの拡張(来客があっても秘密の話が出来ず、何でも筒抜けの会社です)③社員の休憩室の確保(包装室を兼用していますが、男性社員は床に段ボールを敷いて仮眠をとっています)。春には着工の予定でしたが、コロナの影響で延び延びになりました。
コーヒーサーバーをリースで設置しました。先週の酷暑の日、デモンストレーションでリース会社の営業さんが香しいアイスコーヒーを社員全員に入れてくれました。暑さで皆がへたばっていた日でしたから、営業さんのタイミングも大変良かったのでしょう。お代わりする者までいて、早速導入することになりました。紅茶党の私にあまりわからないことでしたが、たった1杯のコーヒーが社員達を生き生きとさせています。小さな幸せ発見でした。
総理大臣の辞任が報道された日、私も心が折れそうになりました。ある政治評論家が、コロナ対策だって他国に比べればよくやっているのに国民の支持がなかなか得られず、体調がすぐれないことと相まって気力が失せたのではないかと書いていました。コロナ対策の補助金はリーマンショック時とは比べ物にならないほど、中小企業には手厚く迅速です。政府の配布したガーゼマスクは、重症の花粉症でマスクフェチだった私が15年前に購入した花粉症用の300円もするマスクと全く規格は同じです。不織布が出回るまではこれが標準だったことを誰もが忘れています。自分も先行きを考えて不安を抱えている時でもありましたから、報われない努力もあることを見せつけられたようで本当に心が折れました。
今日で8月も終わりです。我が社は9月1日が設立日ですので、明日が新年度。また心新たに頑張りたいと思います。
今夏の猛暑は災害と言ってもよいでしょう。昨日のわが社の室温は、焼き入れ場がとうとう47℃に達しました。工場の構造は、五月の鯉の吹き流しのごとく北から南の方角に真っ直ぐ建てられています。北側の入り口から奥に行くにしたがって、32℃→36℃→39℃→47℃!!と温度計の数字はぐんぐんと上昇しました。お客様を迎えるためクーラーの効いた事務所にいる私は、工場にいる皆に申し訳なくやることもないのに工場内をうろうろ、オロオロ。そして、47℃の表示を見たとき決断しました。「今日・明日は3時に仕事を終了します!!」 今までも、特に台風が近づいているときなどフェーン現象で1日2日厳しい暑さはありました。しかしここまで来る日も来る日も続く暑さは経験がありません。売り上げが上がったら、いつかは工場にもクーラーを設備しますと社員と約束していますが、来年は設置しないわけにはいかないようです。地球温暖化は確実に進んでいることを47℃の工場でひしひしと実感しています。因みに97歳の岡部さんは、午前勤務の数日を除いて8月はほぼ有休をとってもらっていますのでご心配なさいませんように。皆様もくれぐれもご自愛ください。 (つづく)
「今年は時間が経つのが早い」が会う人ごとの合言葉のようになりました。「中身のない時間は過ぎるのが早い」と何かの本で読んだことがありますが、確かに2月からの7ヶ月コロナ以外の関心事を探そうにもほとんど見つからないのが現実です。来年、過ぎた年を振り返った時何が心に残っているのでしょうか?せめて12月までの4ヶ月、良いこともあったと締めくくれるような日々になってくれることを祈るばかりです。
さて、6月に売り上げへのコロナの影響は今のところ少ないと書いたわが社でしたが、じわじわとその足音が迫ってきました。そこに猛暑が追い打ちをかけ、クーラーのない工場では仕事の効率も上がりません。今週は厳しいフェーン現象が週末まで続くとの予報が出ていますが、会社は売り上げと社員の命とどちらも守らねばなりません。辛い夏になりました。国民の命と経済の両立を図る政府もかくやと同情を禁じえません。
そんな我が社ですが、少しだけ新しいことを始めました。8月21日「柄沢ヤスリオンラインショップ」を立ち上げました。この時世でデパートや専門店の売り場に並んでいた商品の発注が止まりました。他のネットショップなども食品や日用雑貨などが先に売れていくようで、なかなか爪ヤスリにまでお客様の関心が向きません。そこで前々から念願だった自社サイトのショップを立ち上げることにしたのです。さらにありがたいことに前職で情報システムエンジニアだった若く有能な女性社員が入社してくれました。まさに鬼に金棒です。私、元数学の教師ですがコンピューターがからきし苦手です。先日メールでエクセルのファイルが送られてきました。開こうとしたら「アクセス権がない」と出ます。入手しようと説明を読むのですが、コンピューター用語が全く分かりません。今どきこんなに解読できない日本語が横行していいのか!!と自分の無知を棚に上げて、怒り心頭の私でした。悪戦苦闘の末とうとうあきらめました。「誰でも開ける文書を送ってください」と送り主にメールしてようやく一件落着した次第です。
さて、新人社員に「文章は短く的確に」と釘を刺されました。悪い癖です。また余計なことを書いて本題からそれています。だからこのコーナーは評判が悪いのです。反省しています。
では、本題に戻ります。皆様ぜひこの柄沢ヤスリの新しいショップを覗いてみてください。ショップ限定の商品も取り揃えました。ご来店をお待ちしております!!
もう一つ新しいことを予定しています。昨年7月のこのコーナーで開発を宣言した新商品のうちの2つ目「新踵ヤスリ 誉」を9月中旬から発売開始いたします。詳細は・・・発表まで内緒にいたしましょう。試作を繰り返し、大勢の方の力を借りてようやく完成間近までこぎつけました。製品には自信があります。それをお客様がどのように評価してくださるか、それが一番の楽しみでもあり、ドキドキでもあります。しばらくは自社のオンラインショップ限定で販売いたします。ショップ内で大々的に発売セレモニーをしたいと(思っているのはおそらく私一人でしょう)考えています。どうぞご期待ください。
コロナに酷暑に厳しい夏ですが、必ず収束する日は来ます。それを信じて皆様と一緒にこの禍を乗り切りましょう。
次回からは、「短く、端的に」を心掛けます。 (つづく)
この4ヶ月、仕事以外はほとんど自粛生活で静かに過ごしました。コロナの第一波はようやく終息に向かいつつあるようですが、この後どうなるのかと考えるとまだまだ油断は禁物です。我が社では、消毒のために今賛否の議論かまびすしい「次亜塩素酸水」のスプレーを工場内のいたるところに置いていますが、あまり使っている様子がなくがっかりしています。実は社員達、工業内では誰もマスクをしていません。新潟県内のコロナウイルスの感染者は5月15日以来1ヶ月以上確認されていませんでしたので、皆どこか他人事なのでしょうか。これからやってくるであろう第二波に備えて、まず社員の意識改革が最優先課題のようです。
さて、今回のコロナ禍を体験して思い出すのはやはり2008年のリーマンショックです。その当時私はまだ教員をしていました。進路指導部の就職担当でしたので、秋の就職時期に突然やってきた世界的不況にいやでも影響されました。せっかく就職が決まっても内定取り消しや6月までの自宅待機など高校生にとっても本当に受難の時でした。そしてリーマンショック真っ只中の2010年、私は安定した公務員の職を辞して町工場に飛び込みました。その時会社はすでに雇用調整金を利用していました。仕事は月曜から木曜まで、金曜からは3日間休業体制。朝から電話もFAXも鳴らない1日は不安しかありませんでした。当然のように売り上げは激減していました。金曜日は数少ない注文が来た時のために事務方だけ出勤しましたが、事務所を訪れるお客様は口を揃えて「町中に車が走っていない」「あちこちの会社の駐車場には車が一台もない」明日のことさえ読めない。いつまでこれが続くのか。どこにも答はなく誰にも予測がつかない。ただ、我が社だけではない、誰もがじっと我慢をしている・・・そのことだけが心のよりどころだった2年間でした。ヤスリは主として工場など製造現場で利用される基礎工具ですから現場の影響をもろに受けますが、好景気も不景気も他所より半年ほど遅れてやってきます。我が社にようやく売り上げ回復の兆しが見え始めたのは2012年の春頃だったでしょうか。出口がなかなか見いだせない真っ暗で長いトンネルでした。
そして、今年突然襲ってきたコロナウイルス。年の初め誰が今の状況を予測できたでしょうか。令和初の新年を誰もが寿ぎ、オリンピックで日本中が盛り上がることを期待し、何か新しいことが始まる予感に満ちた年がスタートしたはずでしたのに、たった5ヶ月で今まで経験したこともないようなこの状況です。ただ、ヤスリの仕事の方は不思議なことにリーマンショック時とは別な様相を呈してます。ありがたいことに今のところ注文が減らない、製品によっては逆に増えているものさえあります。その傾向は2月から始まりました。まだ正確な分析はしていませんが、まず外国製品が入ってこないため日本の製品に流通がシフトしたこと、人々の生活様式の変化から通販や生協など自宅に居ながらにして入手できる製品の需要が増えていること、自粛生活で趣味を充実させる人が増えプラモデル用のヤスリが伸びていること・・・etc。今回のコロナ禍で今後世界経済や世の中の仕組みがどのように変化していくか、日本の工業の末端を支えるだけの私達には到底推し量ることはできませんが、今はとにかく耐え抜くしかないことは確かです。
10年余りの間に経験した2つの大きな危機。私たちの力が試されているのかもしれません。
毎年恒例になりましたが、今年も岡部さんのお誕生日の話題です。本当にすごいです!!5月4日に岡部さんついに97歳になりました。これだけ元気にバリバリと現役を貫く職人の、国内(いや世界)最高齢ではないでしょうか。
そこで小話のような岡部語録を一つ。「今のコロナウイルスは80歳くらいの人が大勢掛かっているけれど、私はその年齢には当てはまらないので大丈夫。私はコロナウイルスには掛かりません!」岡部さんらしいウイットに皆で大爆笑でした。岡部さんの良い意味での自分の年齢に対する「自覚のなさ」が、彼女の元気の秘訣と再確認したエピソードでした。彼女、小学校の時は学校の代表として(美人で優秀だった同級生を差し置いて・・・とは岡部さんの弁)ただ一人選ばれた健康優良児だったそうです。またドッジボールの選手として他の学校まで何キロも歩いて試合に行ったとか。たくましくボールを投げる岡部さんの凛々しい姿が、私にははっきりと浮かびます。
先日、懐かしい伊藤栄子さんが3ヶ月ぶりに会社に来てくれました。工場に入るなりあの元気さと明るさで早速その場を席捲しました。伊藤さん語録もいくつか紹介いたしましょう。『他人に会社を辞めたのか?と聞かれるので、”馘”になったと言ってやった』「久しぶりに飲んだ会社のお茶はいかがですか」の問いに『はっきり言って、うんもねぇ!(新潟弁でうまくない)』『岡部さん、この年齢までこんなに元気で仕事していられるなんて、オメさん(新潟弁であなた)は本当に”バケモンどぉ”(またまた新潟弁でバケモノだ)』etc・・・久しぶりの伊藤さんらしい毒舌の数々に私は少々面喰い返事もできずにいましたが、”バケモンどぉ”と言われた岡部さんは「オホホホホ・・・」と微笑み返し。さすが60年連れ添った職場の相棒同士。少しくらいのことには動じない岡部さんの懐の深さにも感動した場面でした。
岡部さんは今、新人職人の指導にも熱心です。新人が今日は元気がなかった、とか順調にやっているようだ、とか仕事の様子にも目を配っています。先日こんなことがありました。初めて扱うヤスリの目立てに何日も悩んでいた新人に「下目は良く入っている。しかし上目が強すぎるので、せっかくの下目がつぶれて噛み合わず汚ない目になってしまっている。もう少し上目をふゎっと入れなさい。その時タガネはホンの気持曲線を付けること」と的確なアドバイス。その日のうちに指導通りに目立てをした新人のヤスリの目は実に見事でした。経験に裏打ちされた岡部さんの指導は理論的です。その貴重な指導を受けられる新人たちは幸せです。その助言を素直に聞く耳を持つ新人職人たちもほめてやりたいと思います。
2日前岡部さん専用の目立て機の調子が悪く、とうとう動かなくなってしまいました。いつもならすぐに修理に飛んできてくれる鉄工所の社長さんも、生憎他の機械の調整に取り組んでいる最中で、いつ行けるかわからないとのこと。 昭和14年から80年以上使っているたった1台の機械ですから他に代わる機械がありません。「機械がだめなら、私明日から・・・」と言いかけた岡部さんに慌てましたが、夕方までには無事メンテナンスは終了し胸を撫で下ろしました。すぐに岡部さんに機械が治ったことを報告し、次の日はまさに”三顧の礼”を持って皆で彼女を迎えました。今の我が社にとって、基本を習得中の新人たちにとって、日本のヤスリ業界にとって、それほど彼女は大事な存在なのです。今でも当番制のトイレ清掃はしてもらっています。順番を飛ばすと「私を年寄り扱いしている」と怒られますから。ここ数日はかなり気温が低いのでストーブを点けましょうか?と聞くと絶対にいらないと断られます。事務所にいる私は皆にどんなにあきれられても「断固ストーブを点けるぞ!!派」ですのに。伊藤栄子さんの言う”○○○○どぉ”は絶対に私のボキャブラリーの範疇にはない言葉ですが、岡部さんに限っては「言い得て妙」と思ったとしたら叱られるでしょうか? こんな風に今日も岡部さんは元気です。益々張り切って素晴らしい製品を作ってくれることを期待したいと思います。
昨日我が社の1日がローカルテレビで放送されました。10分ほどにまとめられていましたが、先回も書いたように撮影はほぼ1日掛かりでした。放送業界の方々のご苦労がしのばれます。お疲れさまでした。ヤスリが作られる工程を見たことがない方には、「目立て」「味噌漬け」「焼き入れ」などきっと興味を持たれたことでしょう。ヤスリが出来るまでの様々な工程が、我が社の日常とともによく描かれていたと思います。皆様のご感想はいかがだったでしょうか?
さて、内容を見終わって一つどうしても訂正しておきたい箇所がありました。このコーナーを使ってぜひ訂正させてください。放送の中で何度も「倒産の危機」という単語が出てきました。はっきり言います!わが社は零細で、地味で、売り上げも恥ずかしいほど微々たるものですが、これまで商売で「倒産の危機」に瀕したことは一度もありません!!確かにリーマンショックの時の売り上げは過去最低でした。しかしあの時は日本中の製造現場の大半が同じ状況だったのです。木曜や金曜から休んでいる工場は地場には沢山ありました。その間社員は自宅待機という話もよく聞きました。皆が景気が上向くまでひたすら逼塞し我慢していた3年間でした。我が社は国の雇用調整金も申請しました。それぞれの会社がその時できる最善の策を講じて世界的な不況を乗り切る努力をした、と私は認識しています。その状況を「倒産の危機」と呼ぶのだとしたら、「倒産の危機」の意味や定義を知らない私が無知なのでしょう。でもやはり声を大にして言いたい。「確かに我が社は後継者がいなくて存続の危機はあった。しかし、倒産の危機はなかった!」と。
きっと私の説明がまずかったのだと、大いに反省しています。以前にもわが社をホームページで紹介したいという団体から取材を受けたことがありました。頂いた校正用の原稿を見てびっくりしました。今回と同じ内容だったからです。確かにどん底から這い上がった物語は読者の興味を惹きます。私も他人事なら感動して読むでしょう。しかし、我が社は長年のお付き合いの大勢のお客様を抱えています。そのお客様に「へぇ、あの時倒産しそうだったのか」と思われたとしたら、我が社の信用問題にもかかわるでしょう。私は頭から湯気を立てて(私はかなり怒りんぼかもしれません)その原稿のその部分に大きなバッテンを付けて返しました。せめて今このコーナーを読んでくださっている方だけにでも、もう一度だけ訂正をさせてください。『我が社に「倒産の危機」など一度もなかった!!!!!』
今連日テレビにあふれている新型コロナウイルスの報道の仕方でも、賛否両論がありますね。あまりにも雑多な情報が氾濫しすぎていて、どれが正解なのか、私たちも判断に迷います。報道の仕方、局の姿勢、伝える人の考え等で同じ事柄でも全く正反対に受け取られたり、全体の中の一部分だけが独り歩きしたり。情報が溢れている今だからこそ、その全てを鵜呑みにすることなく自分の頭でしっかりと考えたいものです。それにしても、市井の人間の小さな情報でさえあっという間に広まってしまう今の情報社会を怖いと思うのは私だけでしょうか。
世界中が新型コロナウイルス禍で今大変な状況です。私も2月4日から3日間、東京で開催されたギフトショーでアテンドしましたが、来場者数が20万人を超えるかなり大規模な展示会のためマスクやアルコール除菌剤などで重装備しとても気を使いました。もっとも、潔癖症の母の影響で、ウエットティッシュや除菌スプレーなどが出回る何十年も前から我が家には消毒用のアルコール瓶がごろごろしており、バッグの中にはジッパー袋に入ったアルコール綿を常備するのが母と私の習慣でした。(友人・知人には奇異な目で見られるのが常でしたが・・・)会社の私の机の周りには昨年買った除菌スプレーが今も3本ほど置いてあります。あきれ顔の社員たちをしり目に、あちこちスプレーして回っています。社員たちにも「不要不急の外出、特にパチンコはしばらく我慢して!!」と朝会で伝えたところ、反応した者が約〇名。怖がるだけではなく、自分や周囲を守るために自身でできる最低限のことはやりましょう!と確認しあっています。早く終息することを祈るばかりです。
さて、この3か月でわが社は男女2人の新人を迎えました。実は昨年、社員に「80周年式典」の案内をしたとたん雪崩現象のように3人から退職を伝えられました。それぞれに事情はあったのでしょうが「こんな会社求人したって誰も来るはずがない」と言って辞めていった女性社員もいて、「あまりにも失礼だろう。その言葉は撤回しなさい!!」とつい声を荒げてしまい、しばらく冷静ではいられなかった私でした。今度来てくれた新人は2人とも製造現場での経験があり、工場に慣れるのも早かったことはまず心強い限りでした。「前職場で多くの経験を積んでいるので」と前宣伝をしたことが影響したのか、競争相手もいなくてのんびりと構えていた社員たちに警戒と緊張が走ったのが少々面白くもあり、目論見通りでもありました。ヤスリの製造はそれぞれの持ち場で「一国一城の主」のような仕事をしていますので、ある程度本人のペースが許されます。いつまでたっても終わらない職人もいれば、手早く仕上げる職人もいる。岡部さんが若かりし頃は、職人も大勢いたので皆ライバル心を持って腕を競ったそうです。「あの人が今日500本仕上げたなら、明日自分は600本仕上げてやろう」と腕まくりをして工場にきたもんだ、と言う岡部さんの職人魂は今や昔々の話です。そんな現場に吹いた新しい風は期待通り工場に刺激を与えています。2人とも熱心で探求心旺盛です。仕事の段取りもすぐに覚えてくれました。「今後の参考としたいので、自分で仕上げたこの大事な1本をもらいたい」とか「教えられたことを真剣にメモする」とか他社では当たり前のことが、我が社ではとても新鮮に映ります。新人が教えを乞うと、忙しさもあってあまり良い顔をしない先輩職人もいますが、めげずに根気強く聞いているようです。何より2人の明るい人柄が職場の雰囲気作りに役立っていることも収穫でした。
私が入社した10年前は、リーマンショックのさなかでした。インフルエンザの予防接種に行ったら社員の半分が65歳以上の予防接種補助金対象者で、本気で会社の将来を案じたことは前にも書きました。リーマンショックがようやく終息して、やっと求人が出せるようになってから何人もの社員が入社し道半ばで去っていきました。せっかく一人前になりこれからというときに残念なことでしたが、私は慰留しませんでした。ヤスリ作りは特殊です。ヤスリへの愛着が一度失せてしまったら、もはやヤスリを作り続けることはできないとこの10年で悟りました。今いる社員たちもきっと会社への不平・不満はたくさんあることでしょう。我が社の今年の目標は「売り上げを伸ばして、社員の給料を引き上げること!!!」ですが、最大の不満は給料であることは絶対に間違いありません。でも自分が仕上げたヤスリを見せに来る時の彼らの顔はちょっと誇らしげです。やっぱり物つくりが好きなんだなぁと感じる一瞬です。辞めていった人たちもヤスリには縁が作れませんでしたが、根底には「物つくりが好き」という気持ちが誰にもありました。そんな人々が日本の町工場や製造現場を支えているのでしょうね。では私は・・・・昨夏岡部さんから目立てを習ったけれどあまりに不器用すぎて未だに工場から一度も声が掛かりません。「好き」とか「嫌い」以前の問題の人間がいることも確かです・・・・。
そうそう、忘れていました。昨日UX新潟テレビ21の取材がありました。朝7時、私が会社の鍵を開けるところから撮影がスタートし撮り終わったのが夕方4時過ぎという長丁場でした。とても聞き上手で穏やかなお二人の製作スタッフの手に掛かって、我が社の一日がどんな風に作られるのでしょうか。3月14日(土)9:30~「まるどりっ!」という番組の中で放映されます。フレッシュな新人を交えて少しだけきりっとした柄沢ヤスリの仕事風景をご覧いただければ幸いです。
2018年の6月から始めた<ヤスリが出来るまでシリーズ>もようやく最後の「仕上げ」まで辿り着きました。途中度々横道にそれてしまったため、1年半も掛かってしまいました。心を引き締めて最後の「仕上げ」のお話をお届けいたしましょう。
これまでお伝えしてきたように、ヤスリの製造には沢山の工程があります。自分で書いてきたものを振り返ってみても、全ての工程になんと多くの問題を抱えている事かと驚くほどです。しかし最後の仕上げまでくれば、製品としての完成は間近です。一般には次のような作業でヤスリに仕上げを施します。
①焼き入れで付いた皮膜を除去するための硫酸洗い。硫酸は水で薄めたものを使用
②アルカリ性の消石灰を利用して①の酸性を中和
③洗浄のため沸騰水で湯焚き(これがヤスリの焼き戻しの役割を担う)
④サンドブラスト(またはショットブラスト)と呼ばれる「研磨材をコンプレッサーの圧縮空気に混ぜてヤスリの
表面に吹き付ける加工」で、ヤスリに残った汚れ等を落とす
⑤割れと切れ味の検査
ここまで済んだらあとは包装して箱詰めして、注文が来るのを待つばかりです。と言いたいところですが、そう簡単には終わらせてくれないのがヤスリの厄介なところです。最近は念には念を入れて、⑤の「ヤスリの切れ味」チェックを全数行っています。しかしそこで撥ねられる製品が、恥ずかしい話ですがひどい時には1割を超えたりします。こんなに多くの過程を経て困難を乗り越えて・・・最後がこれですから頭を抱えたくなります。以前は直前の「焼き入れ作業」の甘さに原因があると結論付けて焼き入ればかりにこだわってきました。しかし県の工業技術センターに試験依頼して組織検査をしたり、外部のベテランに相談したりすることで、最近は「材料」から始まる全ての工程にその原因の可能性があることがわかってきました。これまで書いてきたことと重複しますが代表的な原因を書いてみます。
ex1)「材料」の成分に炭素が足りないために焼きが入りにくい
ex2)「削り」で酸化スケールをしっかり取り除いていないため硬度が出ない
ex3)「目立て」作業で目が浅い・目がしっかりと起きていないため切削能力が劣る
ex4)「味噌付け」作業で味噌の濃度が薄い(あるいは濃い)ため焼いているうちに剥がれ焼きがよく入らない
ex5)「焼き入れ」作業の温度が高い(あるいは低い)。余熱が十分ではない。冷却のスピードが足りない
ex6)「硫酸で洗う」時に硫酸の濃度が濃すぎて大事なヤスリの目が溶けてしまう
ex7)「火造り」「曲がり取り」「目立て」「焼き入れ」のいずれでも、ハンマーでヤスリの曲がりを取る作業
を(大なり小なり)行っているため、材料に応力(元に戻ろうとする力)が働き、焼き入れ時の歪とな
って焼き割れの原因となる etc
職人たち、特に最後の検査・点検する社員は「私たちが1本のヤスリを作るのにこんなに苦労しているのに、ヤスリの値段はどうしてこんなに安いんですか?」といつも憤慨しています。むべなる哉。でも物の価格には「価値」だけではなく「相場」と言うものがありまして・・・。物作りの永遠の課題かもしれません。
先日も、ヒットしているヤスリの仕上げ時にがっかりすることが起こりました。今回に限って「汚れ・シミ」「傷」「へこみ」が目立つのです。何度も製作してこれまでそんなことは一度もなかったのに。原因は不明です。工程の最初から原因を一つ一つ探っていくほかありません。でも製品に対して決して妥協はいたしませんのでご安心ください。
我が社は、ヤスリ製造の全ての工程をトータルで把握してくれる社員や技術者がいません。クレームが来ると「責任の擦り付け合い」のようなことが多少は起こっていたことも事実です。しかしわが社のような小さな町工場では、いつまでもそれでは問題が解決しません。そこで、最近はクレームの内容を伝える前に「クレームがあったとしても、決して犯人捜しをするのではない!科学的根拠がわからない私達だからこそ、全員でその原因を探っていこう!!」と布石を打っておくことにしました。心の準備のために。「一難去ってまた一難」が我が社の日常ですが、社員たちも少しずつ問題解決への協力を互いにできるようになってきたと感じています。皆様の元に届いたヤスリは、柄沢ヤスリのこんな苦労の末にできていることを・・・いえいえ知って頂く必要はありません。良いヤスリを作り続けていくためにも、職人たちが成長するためにもどうかダメなものはダメと、厳しいご意見を(ごくたまにはお褒めの言葉も)頂戴できればありがたいことです。
書く題材がなくなって苦肉の策で始めた「ヤスリが出来るまでシリーズ」もこれで最終回を迎えました。終わってみて感じたことはただ1つ、「物つくりの難しさ」に尽きます。解決したこともあれば、1年半経っても堂々巡りのこともあり、さらにこれまで順調だったことに突然困難が降りかかったこともあったりして、いまだ深い霧の大海原を彷徨う小船のようです。(ただし"嵐”だけはようやく過ぎ去ったように思います。)でも、少しだけ光も見えています。この冬2人の新人が目立て職人として入社してくれました。次回は2人の新風で少しだけ変わった職場のお話をいたしましょう。
1月末、我が社の名物社員”Eさん”こと伊藤栄子さんが一線を退きました。学校を卒業して以来58年、ずっとヤスリに携わってきた大ベテランです。5年前初めてテレビ出演した時、女性トリオについた愛称「3人官女」のリーダー的存在でもありました。彼女と1度でも話したことがある方はお判りでしょう。頭の回転が速くて度胸があって、並の男では到底かなわないほどの女丈夫。入社以来、先代の片腕としてわが社をずっと切り盛りしてきました。職人畑を歩いてきたわけではありませんので、彼女自身はヤスリを作ったことはありません。しかし58年のキャリアは彼女をヤスリの申し子に育てあげました。古参の職人たちが一人減り二人減り・・・とうとう工場長さえいなくなった時、若い職人たちの頼りは岡部さんと彼女だけでした。困ったときは伊藤さん頼み。会社への不満や不安をぶちまける相手も彼女。技術を支える岡部さんとともにわが社の大きな2本柱でした。
そんな大きな存在が退いたわけですから、社員の誰もが寂しさと不安を抱えているに違いありません。中でも96歳の岡部さんの落胆ぶりは私たちの想像を大きく超えました。伊藤さんの去った次の日の朝、家を出るときにご家族に励まされ、仕事についてからも「しっかりしなければ」と自分自身を鼓舞し・・・さすがに50年来の相棒に去られた現実は堪えたようでした。「伊藤さんは今日からご主人と記念の温泉旅行ですって」と話したら「明日帰ってきたらまた土産話をいっぱいしてくれるね」と答えながら、その矛盾に自分でもハッと気づいた岡部さんでした。
「今がこのままずっと続いてくれれば」と願うのは人の常です。しかし月日の流れや時代の変化は、否が応でも必ず訪れるもの。私が入社してからのたった10年で、会社を取り巻く状況は劇的に変化しました。もしかしたら現状のままでもやっていけるかもしれません。しかし変わらなければならない時がまさに今来ていることも現実です。少しずつ柄沢ヤスリを変革させるための大きな一歩がベテラン伊藤さんの引退でした。喩は少し違うかもしれませんが三国志の「泣いて馬謖を切る」気分で彼女を見送った私です。
伊藤さんの抜けた大きな穴は、若い社員たちが一丸となって埋めてくれています。岡部さんは、それはそれは気丈な人ですから私たちの心配も数日で杞憂となりました。若い職人たちに伝統のヤスリ技術を伝授する役割を96歳は担っていますので、まだまだ頑張ってくれることでしょう。一番の心配の種は実は私かもしれません。子供のころから、家族に一番近い存在として、ずっと伊藤さんを頼ってきたわけですから。毎日一人ぼっちの事務所であたふたしています。
こんな風に変化を始めた柄沢ヤスリ。しばらくは不手際が続いてご迷惑をおかけすることもあると思います。どうか、今後とも柄沢ヤスリをよろしくお願い申し上げます。
明けましておめでとうございます。令和元年も明けました。今年はどんな年になるでしょう。良い年になりますように皆様とご一緒に祈りたいと思います。
さて、我が社にとっては少しだけおめでたい今年のお正月でした。それは1月2日に念願の新商品を発表できたからです。商品名は「ちっちゃな初爪(はつめ)」。2年前に発売した「初爪 HATSUME」のミニバージョンです。「初爪」と同じ目立てで、サイズのみ1/2にしたのですが、小さくなった分ヤスリのカーブも緩やかになり私たちの想定を超えた出来栄えになりました。手前味噌ですが、「これが目を立てたヤスリか?」と思うほどに目がきめ細かで爪を削っていることさえ忘れてしまいそうなくらい滑らかな削り心地です。新潟伊勢丹で3日間、燕三条地場産業振興センターで2日間(若干トウの立った)売り子として初売りをしてきました。お客様の反応は上々でした。
これまでも新商品は何度か出してきました。しかし前にも書いたように、本当にわが社の製品で良いのか?と常に気後れし、商品のヒットに半信半疑の思いが拭えませんでした。もちろん技術には自信があります。何しろ80年磨いてきた技ですから。でも油にまみれた工場でできたヤスリが、美しい女性の指先を磨くなんて・・・作業箱に入った山積みの原材料から見ている私達には、店頭で煌びやかに並べられた商品としてのヤスリが未だ信じられない思いだったのです。しかし今回の「ちっちゃな初爪」だけはちょっと違います。ようやく自身で「会心の作」と言える商品になりました。実を言えばヒット中の「シャイニーシリーズ爪ヤスリ」の目立ては96歳の岡部さんが専任です。他の目立て職人は工業用のヤスリを手掛けています。将来を見据えてようやく「初爪シリーズ」は41歳の男性職人に目立てを委ねました。工場の中でしか自分たちの製品に触れることのない職人にとっては、外での評価はあまり関心も無いようで、受賞や売れ行きを話してやってもこれまで反応は鈍いものでした。そこで今回は「初爪」命名の由来にもなった1月7日(七草爪の日 その日にその年初めての爪切りをすると1年間健康でいられるという言い伝え)に社員全員に「ちっちゃな初爪」を配りました。相変わらず誰一人感想を口に出すことはありませんでしたが、自分たちのヤスリがこんな風に出来上がったことに感慨を持ったことだけはほんの少しの表情の変化で読み取ることが出来ました。シメシメ・・・・・。
どこかで「ちっちゃな初爪」が皆様のお目に留まることがありましたら、ぜひ手に取ってお試しになってください。ヤスリでこんな技ができることをどうぞご覧ください。寡黙で偏屈な職人たちが自分の作品をようやく認めた(と思われる?)燕のヤスリの技術を知って頂ければ幸いです。
ところで、喜んでばかりはいられないのです。7月にこのコーナーで宣言した「新商品」開発で、一番作りたかった踵ヤスリが、実は最も重要な部分で立ち往生しています。その部分以外は全部準備が整っているのですが。と言って妥協はしたくありませんので鋭意努力をいたします。次回完成の報告ができることをお約束して。
秋も深まりました。前回このコーナーを書いた時はまだ残暑が厳しい頃でしたから、かなりさぼってしまいました。あれだけ張り切って始めたシリーズでしたのに面目ないことです。
それにつけても、我が社の秋は忙しいシーズンでした。この秋は地元燕三条で開催された3つのイベントに参加いたしました。<燕三条トレードショー> <燕三条工場の祭典> <燕三条ものつくりメッセ> と3週間で3回の参加でした。正直に言うと従業員12人の零細企業には少々負担が大きかったことは否めません。しかし「燕のヤスリ」の認知度アップが、我が社が地元のイベントに参加する大きな意義ですから、目的は達せられたことを信じたいと思います。特に<工場の祭典>は2日間で140名のお客様をお迎えし大盛況でした。ヤスリが出来る工程を初めて目にし、皆さん一様に驚かれたようでした。「目立て体験」を指南する岡部さんや他の職人はへとへとだったようですが・・・。有意義で中身の濃い秋でした。
さて、今日はシリーズ本題に戻ります。<焼き入れ 第2話>です。ヤスリに命を吹き込む工程であることは前回お話ししました。焼き入れの最大の目的はヤスリに必要な硬さや粘りを出すことにあります。焼き入れ前のヤスリの棒は手でも曲げられるほど柔らかく、硬いものを削る機能がまだ備わっていません。そこで焼き入れが必要となるわけです。味噌を塗ってよく乾燥させたヤスリを、炉に埋め込んだ鉛壺の中で真っ赤になるまで熱します。壺の中の鉛の温度は800℃前後が標準です。その真っ赤なヤスリを水温20℃ほどの水の中に入れて急冷します。この「急冷」が焼き入れには重要で、真っ赤な鉄が水の中で「じゅっ」と音を立てて冷されます。高温で加熱して急冷することで、金属の組織構造が変化して硬くなるという原理です。その冷却の際「味噌」が大変重要な役割を果たすことはすでに前に述べたとおりです。味噌のないヨーロッパでは熱処理に「塩」を利用し、打ち刃物で有名な堺では「砂糖水」を使っていたと聞きますので、まるで料理のようですね。また急冷した時にヤスリはその形によってさまざまな変形を起こします。鉄も生き物だったんだと実感する瞬間です。それを防ぐために事前に反対方向に曲げておいたり、「はさみ」と呼ばれる「変形防止用治具」で挟んだりして水冷します。この工程が最も経験と技を必要としますので、まだ経験の浅いわが社の焼入れ職人は日夜悩んでいます。責任も重大でかなり大きなプレッシャーを感じていることでしょう。がんばれ!!
ところでヤスリの焼入れが独特なところは、他の鉄製品と違って中の芯までしっかりと焼きが入る必要がないということです。ベテランEさんがよく「ヤスリの焼入れは中がレアで外がウエルダンの状態が一番良い」と言っていますが、目の立ててある「表面」に焼きが入っていることが最も大事です。中までしっかりと焼きが入り表面も硬度がきちんと出ていても、実際削ってみると滑るだけで全く削れないということがヤスリにはままあります。はっきりとした根拠はまだわかりませんが、ヤスリの焼入れの最も奥深いところかもしれません。実を言えば奥が深すぎてわが社が一番頭を悩ませているのも焼き入れの工程なのです。経験がある職人はすでに亡く、科学的根拠を知る者もいないわが社の「焼き入れ」はここ数年試行錯誤の連続でした。県の技術支援センターとミニ研究を重ね、他社の焼入れ専門家からアドバイスを頂き、大勢の方々を巻き込んで手助けしてもらってきました。その努力が実り少しずつわが社独自の「焼入れ」が確立しつつある・・・・・と言える日が近いことを願う日々です。(つづく)
本当に厳しい夏でした。昨夏もフェーン現象のため臨時休業したり終業時間を早めたりと猛暑対策をしましたが、今年はさらにつらい夏でした。さすがに96歳のベテラン職人をあの環境で仕事をさせるわけにはいきませんので、お盆前の1週間は午前で上がってもらいました。彼女は不承不承でしたが・・・。
さて、長い休み明けはなかなか気持ちが仕事モードに戻りません。そこで「ヤスリができるまでシリーズ」からちょっと横道にそれて、全く個人的なことになりますがこの夏の2つの同級会のお話をさせてください。
私が9年前まで高校の教員だったことは以前にもこのコーナーで書きました。その当時の教え子達の同級会の話です。
一つ目は卒業後18年経った新潟市内の高校の卒業生達の会です。本当に静かな理系のクラスでした。高校3年間で最も盛り上がるはずの体育祭で、20以上はある賞を1つも獲得できなかったクラスです。彼らを鼓舞するために、体育祭終了後力作のパネルを教室後ろの壁一面に貼らせたら、いつまでも祭気分でいるとはけしからんと職員間で大問題になっていたとか。犯人は担任の私なのに。そんな物静かな彼らが毎年2回のペースで私の名前を冠した会を開き続けてくれています。今年で14年目になるでしょうか。3人しか集まらない時もあったし、誰かが結婚すると言えば30人近く集合したりもするし、その時寄れるメンバーが集まってくれます。今では最年少2歳の子供達まで参加するファミリーの会になりました。子供達をあやす私を「孫と遊ぶおばあちゃん」とかつての教え子はからかいます。在学時と同じ静かな空気と心地よい時間が流れる穏やかな恒例の同級会です。
片や、2つ目の同級会はコシヒカリで有名な魚沼地区の進学校。卒業後35年たった教え子達が同窓会の当番幹事です。私ごときを「恩師」と書いてくれた案内状に感慨もひとしお。30年ぶりの再会、もしかしたら感涙にむせぶこともありや、などと期待を膨らませながら出かけました。しかし・・・。なんと明るく賑やかな同窓会でありましょうか。私がクラスを持った当番の学年を中心に前後5つの学年の同窓生が、学年ごとに次から次へとパフォーマンスを繰り広げます。50歳に近い彼らのどこからあのパワーが溢れ出るのか。会場の町に向かう上越線の車窓から、雄々しくも懐かしい山々を眺めセンチメンタルに目頭を熱くした自分が少々気恥ずかしくなりました。懐かしい教え子と語り合うためには、声の限りを張り上げねばならぬほどの「熱演」の数々。ただただ圧倒され彼らのたくましさに完封された、でも愉快な時でした。皆幸せそうで良かった。
因みに自分の卒業した高校の同窓会で、私は同窓生3人で(私はチェロ奏者として)モーツァルトのピアノ三重奏を演奏したことがありました。今回の全員参加型のパフォーマンスに比べたら、私達の演奏はさぞかし退屈だったことでしょうね。
実は私は何十年ぶりに再会する同級会が苦手です。学校を卒業して何十年も経れば、人は皆それぞれに様々な人生を生き、それぞれのドラマを持っています。たった2・3時間の再会で、ただ「懐かしい」だけでは語れない時間を誰もが紡いでいるはず、と思うとなぜだか胸が熱くなってくるのです。だからいつも同級会への出席をためらってきました。学校という職場で「人」と対峙する仕事が長かったので、「人」と関わるとき少し情緒的すぎるのが私の悪い癖です。 しかし、昨年のこのコーナーで書いた「懐かしい人との再会」で考えを変えました。それはほんのひと時を関わっただけの教え子との35年ぶり再会でした。あの時彼が訪ねてくれなかったらもう一生会うこともなかったかもしれないのです。道ですれ違っていたって、電車の隣の席にいたってあの再会がなかったら互いに気づくこともなかったでしょう。「人」と出会ったことを大事にしようと思った経験でした。だからかつて机を並べた友との再会も喜ぶべきことだと今は思えます。
私のセンチな夏の思い出はこの位にして、次回からは「ヤスリができるまでシリーズ」を真面目に続けます。今シリーズ途中の「焼き入れ」はヤスリの工程の中でも一番問題が山積みで頭が痛いのです。さてどうなりますことやら。
「ヤスリができるまでシリーズ」もいよいよ最後の仕上げ『焼き入れ』まで辿り着きました。シリーズスタートの『材料』から振り返ってみても、たった1本のヤスリを作るのにいかに困難が多いか。改めて思い知りました。その中でも『焼き入れ』は製造工程最大の難関です。この仕上げの焼入れを失敗すればここまで苦労を重ねてきた工程がすべて水泡に帰すわけですから、責任も重大です。苦心を重ねる全工程の中で私が最も心を砕いてきたのもこの『焼き入れ』でした。果たして、悩みや苦労話を何話で書き切ることができるか、予想が立ちませんがどうかお見限りなく最後までお付き合いくださいませ。
『焼き入れ』は、ここまでの工程ではまだ只の鉄の棒でしかないヤスリの原型に、工具としての切れ味を与えヤスリに命を吹き込む重要な作業です。その昔、刀を作る刀匠は焼入れをするとき斎戒沐浴して仕事に全神経と全精力を傾けた、と言われています。それほどまでに『焼き入れ』は神聖なものだったのでしょう。わが社でも先代がやっていた習わしを踏襲し、今でもお正月には焼き入れ炉の上にお供え餅を飾り、蝋燭を灯して安全と仕事の進捗を祈願します。かつては女人禁制であったかもしれない場所で祈りを捧げるとき、職人ではない私でさえ身の引き締まる思いです。
では具体的にわが社の『焼き入れ』の方法をお話しいたしましょう。 まず焼き入れ炉についてです。燃料はかつては重油でした。職人不在のため、しばらく焼き専門の他工場を頼って自社での作業を中断していましたが、6年前に再開したとき思い切って電気炉を導入しました。最初は順調でしたが電気では火力が弱いことが判明。作業効率が上がらず悩んだ末、2年前にガス炉に交換しました。職人の手作業で火力調節が必要だった古い重油の炉に比べ、ガス炉は温度管理も温度計付きでコンピューター制御です。自らの知識や経験や勘でヤスリの焼き色を測ってきた来た昔の職人が見たらぶったまげることでしょう。前回書き忘れましたが、焼き入れ前に味噌を塗る大事な効用の一つに、味噌に含まれる塩分の溶解温度(800.4°c)が適正な焼き入れ温度に近似していたため、目で塩分の溶解状態を確かめて適温を知る役割があったそうです。ベテランのEさんは今でも「昔の職人は温度計なんかに頼らなかった。目で色を見たもんだ」と言い続けていますが、それは昔々のお話です。時代も技術もそして人も変化しているのです。あきらめましょう、Eさん。
まだまだ焼き入れの入り口ですが、すでに長文になりつつありますので、また次回に続けることにして本日はここまでといたします。『焼き入れ』だけでいったい何話シリーズとなるのでしょうか?またお読みください。
すっかり夏になりました。燕はおかげ様で地震の被害もなく、1日だけ大雨に見舞われましたが大禍なく過ぎました。九州地方の豪雨災害に遭われた皆様をご案じ申し上げるとともに心よりお見舞い申し上げます。
さて、私達はこの5年で3つの新商品開発を手掛けましたが、ただ今4つ目の新しい商品を考案中です。声に出したほうが実現する可能性が高そうなので、あえて「今年中に完成させます!!」と宣言いたします。商品は新しい機能の「踵ヤスリ」。5年前に開発した「シャイニー踵ヤスリ」は世界に一つしかない機能を持った優れものと自負していますが、私達の持てる全ての技術を駆使した分、価格が上がってしまったことが最大のネックでした。もう一つの弱点は、身体が固くなってしまったご年配の方や膝に故障を抱えている方は今のシャイニーでは踵に手が届かないこと。そこで、この2つの弱点を克服した新踵ヤスリの完成を目指します。詳しい形状などはまだ秘密です。どうかお楽しみに。開発のきっかけや誕生秘話は、完成した暁にパンフレットにたっぷりと述べることにいたします。
思えば7年前、「シャイニーシリーズ」の開発は柄沢ヤスリ始まって以来の大プロジェクトでした。時はリーマンショックのさなか。デザインという未知の領域に足を踏み入れ、お客様に評価される商品が、知識も経験もない私達に作れるのか?自分達の技術だけが支えでした。前にも書きましたが、商品の客観的評価を知りたくて、初めてデザインコンペに応募した時のこと。応募者が参加できるパーティ会場に入る直前まで、受賞者に来ることになっていた電話連絡はとうとう来ませんでした。Eさんと二人で「私達にはやはりデザインの世界は無縁だった。私達には技術しかない。明日からは技術で生き残ろう!!」と固く誓い合って小さく背中を丸めて入場したとたん、「大賞受賞おめでとうございます」(と、Eさんに向かって受賞の報が。貫禄たっぷりのEさんが社長と思われたようでした。納得)「天国から地獄」とよく言いますがさまにその逆の体験でした。今となっては懐かしい思い出です。
新しいことに挑戦するときは、期待でワクワクします。デザイナーさんと金型屋さんと目立て職人と一緒に額を寄せながら、あーでもないこーでもないと意見を交わすのは楽しいものです。新商品の開発も4回目となって、これまでの様々な苦労や困難が少しは糧になっているのでしょうか。はたまた今回は補助金事業ではない気楽さでしょうか。開発資金面では大いに不安がありますが、そこは度胸と経験と皆の熱意で乗り切りたいと思います。「ヤスリができるまでシリーズ」と並行して「新商品開発経過」もご報告できればと考えています。 こんな柄沢ヤスリに今後もご期待頂ければ幸いです。
昨年の12月以来中断していた「ヤスリができるまでシリーズ」を半年ぶりに再開いたします。製造工程もいよいよ終盤に差し掛かりました。今回は聞いた人誰もが「エッ?」と聞き返すこと必定の「味噌付け」についてです。
ヤスリの製造工程の最後に「焼き入れ」がありますが、その直前に行う重要な作業がヤスリに味噌を塗る「味噌付け」です。使用する味噌は、正真正銘の食用味噌です。ヤスリのメーカーやそこで作るヤスリの種類によって多少の違いがあるでしょうが、一般的には食用味噌に食塩・硝酸カリウム・水を混ぜ合わせて使用します。わが社ではそこに炭の粉が入ります。味噌は粒子が細かく混合物とよく混ざり合っていなければなりませんので、わが社でもかつては石臼で挽いていましたが、今はミキサーを使って攪拌しているようです。さらに、どのくらい昔かは定かではありませんが焼き入れの効果を上げるために「青酸カリ」を添加していたこともあったと聞きますから、驚きです。ヤスリの刃先の硬度がより上がったそうです。今はもちろん使えません。
次はその調合味噌の使い方です。目立ての終わったヤスリに、刷毛で均等に味噌を塗りつけます。ヤスリの目は斜めに起こしてありますので目の中にも味噌が入るように、同時に余分な味噌が入りすぎないように刷毛を2度・3度往復させて均一に塗ることが大切です。その後、水分を飛ばすために(ちょうど焼き鳥を焼くような塩梅で)ヒーターでヤスリを十分に乾かします。この時味噌の焼ける香ばしいにおいが工場中に漂います。またその焼き加減(乾かし加減)でもベテランと新人職人の間で意見が分かれます。今のところはっきりと軍配は上がっていませんが、とりあえず次の焼入れ作業をする職人がやりやすいように任せています。
続いて、なぜヤスリに「味噌」を塗るのか、その理由と効用についてご説明いたしましょう。いつから味噌がヤスリに使われるようになったのかははっきりしませんが、江戸時代にはすでに利用されていたようです。日本のヤスリの一大産地の呉のメーカーの多くに「壺」の字が付いていることも「味噌」に由来するとの説が有力です。 さて、本題の味噌を塗る理由ですが、最近までその科学的根拠はわからなかったと古い職人たちは口を揃えます。しかし今は次のような効用がわかってきました。
①味噌の塩分が焼き入れ効果を上げる
焼き入れの際、800℃近くに熱せられたヤスリを20℃の水の中に入れて急冷するとき、ヤスリの表面は水蒸気膜で覆われます。水蒸気の泡の中には空気が入っていますが、その空気が鉄と水の密着をさまたげ冷却が悪くなります。ところが、塩分があることで気泡が付かなくなって、冷却能力が上がり、焼き入れがうまくいくという仕組みです。
②高温の鉛壺に入れた時の、ヤスリの目の保護と焼き割れ防止
③鉛の付着防止
たかが「味噌つけ」というなかれ。たった1つの単純な工程ですが、これを省いては日本のヤスリはできないのです。
失敗して面目を失ったときなど「味噌をつける」と言いますが、もともとは火傷をした時の特効薬として味噌を塗ったことから生まれた慣用句と聞きます。日本人の生活に欠かせない味噌の効用が、実は食する以外にもあることを知っていただければ幸いです。
次回は、いよいよヤスリの最後の工程「焼き入れ」です。ヤスリに命を吹き込む最も重要な工程です。抱える課題が多すぎて、1回でうまくまとめられるか不安ですが準備をしたいと思います。またお読みいただければ嬉しいです。
すでに旧聞になってしまい恐縮ですが、わが社の看板娘”岡部キン”さんが5月4日に96歳を迎えました。毎年感動することですが、本当にいつも若々しく元気です。目立て機につかまって仕事をする姿は凛々しくさえあります。この1年の彼女の語録やエピソードをいくつかご紹介いたしましょう。
〇接骨院での出来事
久しぶりに通院した岡部さん、先生に「原因は何でしょうかね?」と尋ねました。先生の答えは「加齢ですね」。そこ で岡部さん「やっぱり私も齢でしょうか?」。他の患者さんも交えて、診察室中があたたかな笑いの渦に包まれたそうです。
〇白内障の手術
事務所に来られた70代のお客様が白内障の手術をするかしないかで悩んでいました。「やはり年齢を考えると不安で・・・」と言う彼に向って岡部さんは「私は若いうちに白内障の手術をしておいて良かった!」すかさず私が口を挟みました。「岡部さんが手術をしたのって、5年前の91歳に近い時でしたよ。十分に齢を取っていたのでは・・・?」その場にいた皆で大笑いしました。岡部さんにとっては、昨日も今日より若いのです。今日だって明日よりは若いのです。岡部さんの若さの秘訣を垣間見た思いでした。皆さん、岡部さんの齢を追い越すまで、自分の年齢のことを決して嘆いてはなりません!!
〇ナス漬
岡部さんは料理上手で知られています。外で美味しいものを食べると家に帰ってそれをアレンジして作ってみるという話はよく聞いています。その彼女のお料理の中でも絶品なのが漬物です。特に新潟名産の「十全ナス」の漬物は右に出るものがいません。一昨日、今年初物の岡部さんのナス漬を頂きました。ナスも柔らかく浸かり具合も塩加減も絶妙で本当に「旨い」。漬け方を聞くのですが、「フフフフ」と笑うだけで絶対に明かしません。夜漬けて、夜中に起きて「ナスの顔を見る!?」と一度だけ聞いたことがありますが、それ以外は秘伝中の秘伝です。因みに、使う「十全ナス」も買付けの農家さんが決まっていて、市(いち)の日に市場まで自分の足で買いに行き、自分の目で確かめて納得いくナスを選んでくるのだそうです。こんなところにも岡部さんの職人魂を見ることができるのかもしれません。
やはり、今年も話題に事欠かない看板娘の岡部さんでした。益々元気で頑張ってください!!
平成31年4月5日(金)社員や家族も含めて総勢48名のお客様をお招きして80周年記念式典を挙行いたしました。準備に熱くなっている私の耳に、「何でこんな時期に80周年行事なんだ」と言う醒めた声は何度となく聞こえてきました。出席を巡って小さな行き違いも生じました。でも、結果良ければ全て良し。皆様が気持ちよく参加してくださった事が何よりの喜びでした。そして、こんな地味な零細の町工場ですのに(先代は零細にさえ達しないミクロン企業と呼んでいました)おそるおそるご案内状をお出しした燕市長様までがご列席下さり、感激の極みでした。
しかししみじみと思いました。せめて10年早く式典を挙行できていればと。この10年で多くのお取引先や古い職人さん達の間で世代交代が進みました。私はご挨拶の中で我が社の歴史を簡単に振り返ってみましたが、社員はもとより来賓の大半の皆様が5年前の我が社の事さえご存じないと分かりました。古い写真や最初に柄沢ヤスリがテレビ出演したときのビデオなどを上映しましたが、半数以上の方がそれらを初めて目にして驚きの表情でした。10年前だったら、あの職人さんもこの外注さんも、あそこのヤスリ屋の社長さんも会長さんも皆健在で、懐かしい写真やビデオに欣喜雀躍されたことでしょうに。すっかりヤスリ業界が様変わりしたこの10年に複雑な思いでした。時代の流れだけでは片づけられない大きな問題をはらんでいると感じたのは私だけではなかったでしょう。
と言って、後ろを振り返ってばかりもいられません。次の10年に向けて柄沢ヤスリが担う使命、「日本のヤスリ造りの伝統の灯を守る」ことをしっかりと心に刻んだ特別な一日でした。この思いが、どうか若い職人達にも届きますように・・・・・。 (つづく)
我が社は、この4月に創業80周年を迎えます。江戸時代中期から始まったと言われる燕のヤスリ作りの歴史から見たらまだまだ新参者です。戦後の最盛期まで燕のヤスリ製造工場は60社ほどあったと聞きますが、ヤスリの需要の減少からすでに昭和30年台初めには約半数の30数件にまで減っています。燕の産業の歴史本には「いずれもヤスリに執念を持ったか、他業種に転換しそびれた業者であろう」と残ったヤスリ屋に対して失礼極まりない書き方で記録されています。そして現在はとうとう3社だけが残りました。3社ともそれぞれ特色をもって、各社独自のヤスリを作り続けています。私はまだ9年しかこの工場に関わっていませんが、80年の間にどのような変遷や浮き沈みがあったのか、もはや歴史の証人は誰もいません。しかし「ボール印」のヤスリが残っていることが我が社が守ってきたことの確かな証と言っていいのかも知れません。4月にはお世話になったお客様をお招きして記念祝賀会を執り行います。「社員だけの飲み会で良いんじゃないですか」と言い放つ若い職人がいて、80年の来し方を噛みしめて感慨にふけっていた私はあまりの考え方の違いに愕然としました。一番変わったのは職人達の気質かも知れません。まぁ、愚痴っても詮無いこと。時代の流れと割り切って、祝賀会の準備に追われています。
4月のパーティが終わるまで、こんな風に驚かされることも度々でしょう。また、驚きの出来事が出てきたらご報告することにして、本日はここまでといたします。 (つづく)
後ればせながら 明けましておめでとうございます。
今年こそ安寧の年であることを祈りたいと思います。
さて、昨年発売した新爪ヤスリ『初爪 HATSUME』が3つ目のデザイン賞を頂きました。燕市のインダストリアルデザインコンペのグランプリから始まり、本当に光栄の極みです。1月18日に六本木のギャラリーで行われた「JIDデザインミュージアムセレクションVol.20」選定証授与式は華やかでした。選定48商品中ゴールド賞は「小田急電鉄ロマンスカー」「TOTO ネオレスト」「アディダスの4Dシューズ」「ヤマハのクルーザー」「コクヨの椅子」の5作品。そんなそうそうたる会社やメーカーの商品に混じって町工場のヤスリが選ばれたのですから信じられない思いでした。選定商品のデザイナーさんや担当者の開発秘話を聞きながら、しばしデザインという華やかな世界に酔いしれました。 しかし受賞の度にいつも思います。油にまみれた町工場で出来る私達の製品で本当に良いのだろうか?と。私達が主力製品として作っている「ヤスリ」は工具の中でももっとも基礎工具です。どんな製造現場にも絶対になくてはならないヤスリですが、あくまでも黒子なのです。「切れ味」という機能や性能が命の道具です。「いかに切れるヤスリを作るか」を使命として職人達は日々研鑽を積んでいます。お洒落なデザインとは無縁の無粋な鉄の棒が普段私達が扱っている製品なのです。表彰式のスポットライトに、天にも昇る心地であると同時にいつも少しの気後れを感じてしまう事を白状いたしましょう。
先日こんな事がありました。「岡部さんの作る目の細かい『爪ヤスリ シャイニー』が切れすぎると言う声がお客様から寄せられた。ではもっと細かく優しい目にリニューアルしたらどうか?」と提案をしました。しかしやがて96歳になる岡部さんの返事は「私はイヤだ!ヤスリは切れなければヤスリでない。今のシャイニーの目でさえ切れが悪いのではないかと心配で、私は納得していない!!」皆さん、これぞこの道60年のヤスリの目立て職人の心意気というものなのです。
5年前シャイニーシリーズの爪ヤスリ・踵ヤスリを開発して、初めてデザイン性をヤスリに取り入れました。ヤスリ屋にとってはかなりの冒険でした。同業者からの反応もいまいちでした。そんな私達がデザインで評価をいくつも頂いたわけですからもっと胸を張って良いのかも知れません。でも、普段日の目を見ない工業用のヤスリ達にだっていつかスポットを当てたい、と言う思いが私の心の奥底にはいつもあることに改めて気づかされたデザイン賞の表彰式でした。『下町ロケット』の佃製作所にはなれないけれど、いつか自分たちの真っ黒なヤスリがスポットライトを浴びる日を夢見て、せめて岡部さんの『心意気』だけは若い職人諸君にも持ってほしいなぁ。 (つづく)
大変ご無沙汰いたしました。秋は沢山イベントがあった上に、事務のベテラン《ヤスリの申し子》の様なEさんが「変形性膝関節症」の手術のため1ヶ月半入院・療養し、一人事務室に残された私は慣れぬ仕事にてんてこ舞いでした。先代が病に倒れてから、我が社の中心になって会社を切り盛りしてきたEさんの、かくも長き不在を果たして乗り切れるか?不安でしたが「案ずるより生むが易し」のことわざ通り社員一丸となって無事乗り切りました。彼女は今週から身体を慣らすために半日勤務で職場復帰です。その1ヶ月半のおかげで、繊細な(?)私は心労が重なり少々体調を崩しました。入社8年で初めて病欠を1日取り、ベッドで休みながら人間は身体が資本であることを改めて実感いたしました。同時に無理の利かない年齢になっていたことも・・・・・。
さて、今回はいよいよ目立てのお話です。ヤスリの表面についているギザギザの部分をヤスリの「目」と言います。刃物の「刃」に相当します。ヤスリの命です。一般的には目が斜めに2本交差した「複目」のヤスリが多く利用されますが、爪ヤスリは「3本目」、プラスチックヤスリのように表面を仕上げるために利用するヤスリは1本目の「単目」が使われています。多くの皆さんがあのギザギザはプレスか何かで1発で押して出来るものだと勘違いしているようです。プレスで押せば確かに筋目は入ります。しかしつるつる滑るだけで全く切れません。「目立て」とはその文字の通り、タガネと呼ばれる刃物を鉄の材料に斜めに打ち付けて目を起こす(立ち上げて行く)作業のことで、ただの金属の棒がヤスリという刃物に生まれ変わる瞬間の重要な工程です。主な目立ての方法には、槌とタガネを使って手作業で目を刻んでいく「手切り」と、大正時代に誕生したミシンが原型の『目立て機』(レオナルド・ダヴィンチが最初の目立て機を組み立てたと言う説もあるそうです)を利用した「機械切り」があります。「手切り職人」は日本ではあと2・3人しか残っていませんので、大変貴重で大事な職人さん達です。我が社は昭和14年の創業時から機械を導入して目立て作業を行っています。現在の機械も創業当時から80年そのまま使用しており、もし壊れたらもはや作れる鉄工所はどこにもないと言う年代物です。さて、機械切りは手切りに比べて楽かというと、イエイエそんなことはありません。バネの力で打ち付けるタガネの高さの微調整や目の深さなど、人間の目と感覚が物を言います。特に我が社のような小型で特殊な形のヤスリを作っている工場では目立て職人の高い技術が求められます。
我が社には目立て歴60年、95歳の岡部さんを筆頭に27歳の若手まで6人の目立て職人がいます。その中の3人がまだ入社3年に満たない新人です。今私がもっとも心血を注いでいるのが彼ら職人の育成です。習い事の基本に「型に入って、型から出よ」という教訓があるそうですが、前にも書いたように、岡部さんを除いて我が社の職人達は先輩からきちんとした基本や理屈を教わる機会がありませんでした。そこで外部の職人さんを招聘して指導してもらったり、Eさんと共に一人ずつアドバイスをしたり、と技術を教える方法をこれまで色々と試みてきました。しかし、なかなか我が社80年の伝統を伝えることができず、互いにもどかしい思いをしてきました。昔の職人は1日に500本は目を立てていました。今はその1/5程です。もう少しスピードアップをと言えば、「無理です!」と返事が返ってきます。製品は上がらない、お客様にはしかられる。そこに持ってきてEさんの入院です。私は頭を抱え、胃は痛くなるばかり。そこで最後の手段として、11月から岡部さんに登場してもらうことを決めました。ここ最近彼女は爪ヤスリ専属でしたし、もう歳だからと社員への助言は遠慮していました。表に出ることを嫌う人ですから私も彼女の気持ちを尊重してきました。しかし彼女こそが実は目立て技術の生き証人だったのです。早速朝会で「これからは全て岡部さんの指導を仰ぎなさい!」と声高らかに(!!)厳命しました。そして、今まで試みたどの方法よりもこれが効果を上げたのです。岡部さんの指導は非常に理論的です。素人の私が聞いても「なるほど」と思わず膝を打つ程に目立ての理屈がわかりやすく、理に叶った説明をしてくれます。やはり彼女は並の職人ではありませんでした。他の職人と競い合いながら60年腕を磨いてきたのですから。なぜ現代の名工に誰も推薦してくれないのか不思議です。ここひと月ほど目立て職人達は岡部さんの横で指導を受けています。彼らの立てる目も確かに変わってきました。黒々と仕上がったヤスリは目がしっかりと入った良い目立てなのだそうです。そんなヤスリをここのところ何度か目にしました。「我が社の存亡を賭けて、岡部さんの技術の全てを吸収してくれ」と、また一席打ってみようと目論んでいます。
目立て技術の話をもっと書きたかったのですが、今回も結局は我が社の抱えている問題が主になってしまいました。ここまで工程の半分以上を書き連ねてきて、つくづく伝統と技術を繋いでいくことの難しさを再認識しています。
さて次回の工程は「味噌付け」です。すんなりと話は進みますやら。また、お読み下さい。
新潟はようやく過ごしやすい気候になりました。しかし今夏は北海道の地震や西日本の台風被害・豪雨災害など日本全国で災害が続きました。新潟県でも地震を経験しましたが、あの恐怖と不安はとても言葉では言い尽くせません。皆様に心よりお見舞い申し上げます。
2回ほど番外編が入りましたが、「ヤスリが出来るまで」シリーズを再開します。今回は「削り」についてです。
これまでの作業の中に「火造り」と「焼きなまし」がありましたが、どちらも鉄を高温に加熱して行う作業であるため、熱によってヤスリの表面には酸化スケール(酸化鉄の被膜)や脱炭層(酸化スケールの内側に出来る鉄から炭素が脱出した層)が生じます。これらを完全に除去しないと、最後の工程の「焼き」が入らなかったり、ヤスリの刃先の硬度が得られなかったりでヤスリが切れない原因になります。そこでグラインダーや左右両方に持ち手のついた双手(もろて)ヤスリでそれらの邪魔者を削り取る作業が必要になってきます。その工程が「削り」です。さらに「削り」はスケール等を除去するだけではなく、様々なヤスリの形態を削りながら整えていくと言う役割も担いますから、大変大事な作業です。大きなヤスリの「削り」にはグラインダーを使うことが多いようですが、我が社の主力製品は小型のヤスリですから、昔から屈強な男性の職人が双手ヤスリを利用して作業してきました。夏など汗だくになって、上半身裸で力を込めて削っていました。しかし時代は変わっていきます。削り職人の高齢化でとうとうこの工程が滞ってしまいました。何ヶ月も製造が止まってしまうヤスリが出てきて、「どうするつもりなのか?」と社員達からも責められました。求職活動もしてみましたが、かなりの重労働できつい作業ですからこのご時世に簡単に職人が見つかる訳がありません。協力会社も探しましたが全て断られ頭を抱える日々が続きました。そこで意を決してこの部門の機械化を決めました。国の補助金が運良く採択されたので、コンピューター制御の最新の研磨機を導入しました。幸いこの機械の扱いに慣れた社員がいましたので、ヤスリ屋には似つかわしくないハイテクの機械が毎日作動してヤスリを削っています。おかげで窮地は脱しましたが、人間の手に比べ効率はかなり悪いです。採算がとれているかどうかは、ただ今検証中です。
このシリーズも全工程の真ん中ほどまで来ましたが、全ての工程に共通している課題は「技術の伝承」です。幸い我が社には何人かの若い社員が頑張ってくれていますが、一人前の職人に育つまでどのくらいの時間が掛かるのか予想できません。彼らを育てる前に伝統が消えてしまっては本も子もありません。技術を持っている最後の職人が残っている今のうちに、職人の作業の「機械化」を本気で考える時期が来ていることを実感する毎日です。
次回はいよいよヤスリ作りの命ともいえる「目立て」についてお話しいたしましょう。お楽しみに。
今回もお約束を破って特別編です。「ヤスリが出来るまで」シリーズの続きは次回に回して、先日社員全員で行って来た「大地の芸術祭」について書くことにいたします。
現在十日町市の道の駅「クロステン」にて我が社の商品をささやかに展示中です。新潟県産品の認知度の向上を目的としたプロジェクト『NIIGATA in 10』に参加させて頂いているのです。会場で新商品「初爪」のお試し会を実施することになったので、それならば社員全員を連れて、今十日町・津南で開催されている「大地の芸術祭」も一緒に見てこようと、お祭りごとの好きな私が企画しました。
9月1日(土)社員の子供達も特別参加で総勢21名、生憎の雨の中を貸し切りバスで十日町に向かいました。普段は会社の行事には不満タラタラの社員達も、今回はまんざらでもない様子。仕掛け人の私も思わずニンマリです。
まずは芸術祭の拠点となっている越後妻有現代美術館「キナーレ」で各自自由に観賞することにしました。しかし現代アートほど好みや理解の仕方がはっきりと分かれるものはありません。早い社員は15分ほどで会場から出てきました。反対に子供達には魅力満載の作品群だったようです。「キナーレ」は建物自体が芸術作品です。真四角の建物の中央は吹き抜けになっていて、そこには巨大な池とその水辺を囲むようにつくられた回廊があります。2階部分から池を見下ろすと、ちょうど光に反射して建物が水面に映し出された様に見えます。鏡の様に映って見える部分は実は水底に描かれたものだそうですが、自然の風景も利用した巨大な作品に私は感動しました。回廊には四畳半の大きさの様々な建造物・空間が30ほど仮想「村」をイメージして展示されており、作家達の創意工夫が読みとれました。「自分には絶対にない!!」豊かな発想の作品群を存分に楽しみました。
一行はこのあと、廃校になった小学校が丸ごとアートになった「絵本と木の実の美術館」や、山里の中の斬新な建物「まつだい農舞台」などを巡りましたが、岡部さんとEさんと私の3人は皆と別れ、道の駅にて「初爪お試し会」のお仕事でした。東京から友人もお手伝いに駆けつけてくれましたが、残念ながらお試し会の方は閑古鳥でした。せっかく人気者の岡部さんとEさんがスタンバイしましたが、十日町ではまだ我が社の商品は浸透していなかったようです。
猛暑だった今年の夏、冷房もない工場で仕事を続けた社員達の身体もかなりキツかったことでしょう。たまには仕事を離れたこんな息抜きの1日があっても良いのかもしれません。社員達が芸術祭の現代アートを堪能したかどうか?は別にしても楽しい1日でした。
ようやくお盆休みも終わりました。我が社も本日から平常通りの営業です。
さて今回はシリーズ5回目「削り」について書く予定でしたが、休み中の暑さの疲れで気分は仕事モードに戻りません。そこで今回は番外編で我が家のお盆について少しだけ書かせてください。また柄沢ヤスリとは全く無関係な話題で恐縮です。
我が家の宗派は「真言宗」。普段は自分の家の宗教を意識することはあまりありませんが、お盆だけはそうはいきません。真言宗独特の習慣に従い、やることが山ほどあります。まずは仏壇への飾り物。小さな梨・リンゴ・柿・赤や白の茄子・瓢箪・鞘に入った豆・鬼灯(いずれも正式な名称は知りません)そして大小の菰(こも)・蓮の葉などを買い求めます。同じような風習の「法華宗」が盛んな三条の市(いち)では沢山の飾り物が揃っていますから、地元燕ではなく三条の12日の盆市に早朝5時頃から出かけます。(三条は二七、燕は三八、加茂は四九の日に市が立ちます)弥彦線の高架橋の下で開かれる市はすでに6時頃にはラッシュアワーなみの大混雑。その活気になんだがこちらも元気が出てきます。それらの飾り物は昔は糸で括って仏壇の前につるしていたことをおぼろげながら記憶していますが、誰も正しいやり方を教えてくれませんので、ご先祖様に失礼のないよう心掛けつつ今は我流で蓮の葉の上に飾りつけています。大きなお盆の上に桃を盛りつけ、隣のお盆には季節の果物や野菜・・・確かサツマイモやトマトもあったような。麦饅頭や白玉団子を「数列の公式」を思い出しながらピラミッド型に積み上げ、最後の仕上げに「霊供膳」。小さな塗り物の器におままごとの様な精進料理を供えます。本来はお盆中1日3回供えるそうですが、母達は毎朝1回だけ、小さな豆腐や油揚げやミニチュアの様な信太巻きや茶巾茄子や・・・を楽しげに作って上げていましたので、私もそれに習っています。毎日ですからメニューに苦労しますが、毎年必ず1度は我が家の晴れの日のご馳走「ゼンマイ汁」を作り私達もご相伴に預かります。そうそう、お花を忘れてはいけません。昔は1本の竹を支柱にした華やかな仏花を父が自ら生けていました。子供の目から見てもダサくて全くセンスのない父でしたが、生け花と書の腕だけは認めないわけにはいきませんでした。我が家のお墓の字は父の筆になるものです。父の華道の流派を母に尋ねたところ「デクノボウ???」。以来「池坊」はしっかりと私の記憶に刻まれました。たった一輪の野の花であっても、凛とした佇まいの父の生ける花は思わず見惚れました。私には華道の素養は全くありませんので今は花屋さんにお任せです。
40年以上前不慮の事故で16歳だった弟を亡くした年から、いつも心に何かが突き刺さっているようで穏やかな気持ちでお盆を過ごしたことがありませんでした。しかし自分でお盆の準備をするようになって、ようやく心静かにご先祖様を迎えることが出来る様になった気がします。歳を重ねたせいですかね。
昔「弟さえ生きていてくれたら、私にはもっと自由な人生があったはずなのに・・・」と嘆いていたら、父と母が「家業も省みず自分の好きな仕事に就き、趣味と道楽に生き、盆も正月も構わず好きな時に旅行に出かけ、これ以上の自由があるのだろうか・・・・・?」と目を丸くしました。ごもっとも、と納得した結果今このコーナーを書いている私がおります。お盆は自身の来し方を振り返る時間にもなったようです。
次回は真面目に「ヤスリが出来るまでシリーズ」を続けます。文字ばかりで内容が分かりにくいと、このシリーズは不評の様ですが、いずれ写真や図を載せたページを作ります。それまでは、入社8年目の私の総括としてお付き合い下さい。
フェーン現象の影響で猛暑となり、本日は臨時休業といたしました。後の回でも述べますが、我が社は焼き入れ作業をしていますので、800℃を越える炉から出る熱は半端ではありません。焼き場はもちろんその隣の作業場もここ数日は38℃越えは当たり前でした。工場が全館冷房に出来るような構造になっていませんので、スポットクーラーを急遽注文をしたところ、6・7軒聞いて貰っても全て在庫無し。この猛暑とさらに西日本の被災地に流通したという事情があるようです。普段は夏でも北から南に涼風が吹き抜ける工場ですが、この度の猛暑には全く効果なし。遮熱のブラインド、10時のアイスキャンディ、冷却用ベスト・・・色々手を尽くしてみましたが焼け石に水でした。昨日の40℃近い熱風に耐えきれず、社員の身の安全を考えて臨時休業を決断いたしました。95歳も働く現場です。築50年の工場ですので、最近の異常気象に対処する方法を考えねばならない時期が来ているのかもしれません。
さて、シリーズ4回目は「歪み取り」について書きましょう。こちらの方言で「くり取り」と呼ばれています。「歪み取り→くるい取り→くり取り」と転じたようです。ダイレクトに「曲がり取り」と言う人もいます。製造過程の「鍛造(火造り)」や「焼きなまし」によってヤスリ材には歪みが生じます。そのメカニズムをごく簡単にご説明いたしましょう。火造り時にハンマーなどで鉄材を打ち付けますが、その荷重で素材の内部に応力(stress・抵抗力)が生じます。それが焼きなましの加熱で解放された結果、素材に曲がりや歪みなどの変形が現れるのです。素材がゆがんだままでは、この次の工程の削りや研磨が上手くいきません。そのために木や銅のハンマーで変形を修正する必要が出てきます。それが「歪み取り・くり取り」です。この「くり取り」、目立てが終わって焼き入れをする前にももう1度行います。2度のくり取りが実はヤスリの出来映えを大きく左右するのです。特に目立て後のくり取りは、今我が社の大きな悩みの一つになっていますし、焼き入れとも深く関わってきますのでその回で詳しく述べることにいたします。その昔、「仕上げ場」と呼ばれる板の間で職人さんが胡座をかいて「トントントン」とリズミカルな音を立てながらくり取りをしていた光景が今でも目に浮かびます。そのころは何の作業をしているのか理解していませんでした。何度も書きますが、もっとよく見ておけば良かった・・・。
ヤスリ製造の工程はまだまだ続きます。どうぞ次回もお楽しみに。
シリーズも3回目になりました。今回は「焼きなまし」のお話です。焼きなましは焼鈍(しょうどん)とも呼ばれます。これまでにお話しした「圧延」や「火造り」によってヤスリの素材は加工硬化(金属に力を加えることによって硬くなること)を起こします。さらに「圧延」「火造り」どちらの工程もヤスリの材料を高温加熱して行う作業であるため、作業後空気中に放置することで簡単な焼き入れ状態になり素材が硬化してしまいます。材料が硬いままではこの後の「目立て」作業に困難をきたしますので、それを軟化させる必要があります。この材料を軟化させる作業が「焼きなまし」です。 我が社のやり方は、電気炉の中で1回目は800℃前後で2時間加熱、そのまま1時間ほど放置して2回目も800℃前後で1時間加熱。その後ゆっくりと時間を掛けてヤスリの材料を冷却していきます(冷えていくスピードは10~20℃/h位。 これを「徐冷」と言います)。徐冷の方法は会社によって少しずつ違いがあります。一般的には加熱した炉の中でそのままゆっくり一昼夜冷却する方法(炉冷)が多く取られているようです。我が社では加熱が終了した後、別な容器に移し替え「藁(わら)を燃やした灰」を被せて一晩ゆっくりゆっくりと冷やしていきます。熱せられた鉄に布団を被せるようなイメージでしょうか。この「ゆっくり冷やす」という作業が材料の組織を変化させて鉄材を柔らかくするために非常に重要です。(専門の文献には、パーライトがオーステナイトに溶け込んで、セメンタイトが核になって・・・?????とメカニズムが書いてありますが、何度説明を受けてもちんぷんかんぷん、さっぱり分かりません。したがって、この部分の詳しい解説は端折ります)熱処理の専門家に尋ねても「灰」をかぶせる方法はあまり知られていないようですが、保温力のある「藁灰」を利用して温度を均一に保持しながら徐冷する昔ながらのやり方は、もしかしたらかなり理にかなった方法だったのかもしれません。
何年か前「藁」にまつわるこんな出来事がありました。秋晴れの気持ち良いある日の昼下がり、用があって工場に入ったら社員が誰一人いません。何事か?とあちこち探し回り工場の裏に回ってみたところ、全員が田圃に入って「落ち穂拾い」をしているではありませんか。もちろん田圃の持ち主の許可を得ての行動でしたが、聞いてみれば焼きなまし用の藁を冬が来る前に集めているとのこと。まだ入社したての頃でしたので、ヤスリの製造工程に「落ち穂拾い」があったとは仰天でした。晩秋の頃の新潟では、白鷺や飛来した白鳥が田圃で落ち穂をついばんでいる光景をよく目にしますが、柄沢ヤスリの「落ち穂拾い」は知らない人が見たら「あの人々はいったい何をしているのか?」全く理解できない場面だったことでしょう。訳を知るまでのあの不思議な一コマ・・・10人近い人間が腰をかがめて黙々と、一心に何かを拾っている・・・今でも忘れることが出来ません。
さて、この「焼きなまし」いとも順調そうに述べましたが、この作業の善し悪しによって次からの工程にかなり影響が出てくるのです。この後「削り」についての回がありますが、「なまし」の職人と「削り」の職人、これがまた仲が悪い!!と昔から相場が決まっていました。さて、どちらのせいか?それについてはまたその回でお話することにいたしましょう。今回はここまででした。
シリーズ2回目は「火造り(鍛造成形)」について書きます。ヤスリの「火造り」とは圧延工場で延されたヤスリ材を、さらに様々なヤスリの形に成形していく作業のことです。我が社の得意とする組ヤスリの形には一般的な平・丸・甲丸・三角・角(いずれも断面)の他に先細・鎬(シノギ)・だ円・腹丸・刀刃・両甲丸・蛤と呼ばれる種類があります。それぞれの形によって用途があるのでしょうが、私達はもっぱら製造が専門ですのでどのように利用されているのか残念ながら詳しいことは分かりません。それらの形の成形を受け持つのが「火造り職人」、いわゆる鍛冶職人です。刀鍛冶や鉄砲鍛冶に対して「野鍛冶」とも呼ばれていました。鍛造用 の炉の中でコークスを1000度近くまで加熱します。左足で鞴(ふいご)を踏みながら炉に風を送る様は、文部省唱歌「村の鍛冶屋」の文句そのままの光景だったようです。(もっとも、現在は鍛冶屋さんがいなくなったので文部省唱歌から削除されたそうですね。どうりで子供達の工場見学で歌って聞かせても、皆ぽかんとしているはずです)その炉の中で真っ赤に熱せられたヤスリの原型を、大きめの物は「スプリングハンマー」と呼ばれる機械で、小さめの物は「玄翁(げんのう)」と呼ばれる金槌で叩きながらそれぞれの形を作り出していきます。下手をすれば小さなヤスリなど熔けて消えてしまう程の温度だそうです。夏など過酷な作業だったことでしょう。
実は我が社専属の火づくり職人は今から10年前、明日の仕事の段取りも全て済ませゆっくりくつろいだ姿のまま89歳で泉下の人となりました。まさに生涯現役を地で行ったような人でした。燕の最後の火造り職人の一人でした。私が生まれる前からの我が社の職人でしたから、新年会や社員旅行など折に触れて声を掛けて貰っていましたが(昔は工場は自宅の中にありましたから、職人さんは全員顔見知りです)残念ながら彼の火造りの仕事は一度もこの目で見たことはありませんでした。上で書いたことは、すべてベテランEさんからの貴重な証言です。私がもう少し燕のものづくりに関心を持っていれば、私だってヤスリ造りの証人になれていたはずですのに。大事な職人達の宝の様な技を、側にいるのにみすみす見逃していたとは、自分の見識の無さを恥じています。
最後の火造り職人を失ってから我が社はしばらく途方に暮れました。大小様々100種類以上あるヤスリの形が作れないのですから、「廃業も止むなし」とまで覚悟しました。しかしさすが職人の町燕です。燕の洋食器の技術を生かして金型で手伝ってみようかと言う職人が現れました。火造りとは全く別な発想でしたから、数え切れないほどの試行錯誤を繰り返しながら(今もその途上ですが)現在はようやく7割くらいのヤスリの形が作れるようになりました。特殊な形は最新技術のレーザーを使うことさえあります。燕は町が1つのドリーム工場です。「我こそは」と腕利きの職人が今でも町を支えてくれていることは、零細の製造業者には頼もしい限りです。
いつかどこかでヤスリをご覧になる機会がありましたら、さてこの形はどのようにして成形されているのか?少し思いを馳せて見てください。もしどうしてもその”謎”が解けないようでしたら、どうぞ我が社に遊びにお出で下さい。燕の職人達の技をお目に掛けましょう。
さて、次回は「焼きなまし」についてお話しいたします。一難去ってまた一難。火造りが解決するとまた次の問題が・・・。尽きることのない我が社の困難にまたお付き合い下さい。
いよいよお約束の新シリーズ「ヤスリが出来るまで」を開始いたします。今までのように気ままに書くわけにはいきませんので、少々緊張しています。かといって職人でも専門家でもないので、あくまでも私が身近で見聞きして身につけた知識を私なりの解釈で書きます。違っていたら遠慮なくご指摘下さい。最後まで無事辿り着けるかどうか危ういところですが、皆様どうかお見限りなきようお付き合い下さいませ。
さて、1回目はヤスリの「材料」についてお話しいたしましょう。
一般にヤスリの材料は鉄に炭素やクロムなどの元素を合成した特殊鋼が使われています。我が社の主力商品は組ヤスリですが、特に組ヤスリには炭素を主元素とする炭素鋼(ハイカーボン)の「SKS8」が最も適しています。その「SKS8」材が圧延工場で細く長く延ばされ、様々なヤスリの形に圧延されてそれぞれのヤスリ工場に届くのです。しかし、ヤスリは他の工具や刃物に比べて材料の使用量も少なく、近年はヤスリ自体の需要も減ったため「SKS8」材を作る製鋼メーカーも今や数えるほどしかありません。ヤスリに適した材料が手に入らなくなってきたのです。材料を注文してから半年待ちなんて、日常茶飯事。手に入ればまだいい方です。そのくらい材料の入手が実は深刻なのです。
材料に関して一度こんな大きな失敗を経験しました。ただし専門的な解説が出来ませんので少しダラダラと書きますが、一つの体験談としてお聞き下さい。
我が社は特殊なヤスリの製造を得意としていますので、一般のヤスリの規格に合わない特別なサイズの材料も必要となります。しかしどこを探してもそのサイズが見つかりません。そこで鋼材メーカーと相談して、出来るだけ「SKS8」と成分が近い材料で試してみることにしました。持ち手(ヤスリの用語で「コミ」と言います)がある特殊ヤスリは、何の問題もありませんでした。ところが我が社の看板商品である持ち手のない(4面使用できる)プラスチックヤスリになると、何度試しても「焼き」が入らないのです。300本~500本目立てをして、「焼き」になると全て失敗・・・どんなベテランが試しても同じことの繰り返しが1年近く続きました。とうとう日本中(いや、イタリアのクレモナやアメリカの楽器職人さんも使っていましたから世界中)の棚から「プラスチックヤスリ」の1番の売れ筋のサイズが消えました。販売店・愛用者からクレームの嵐が起きました。何度お詫びの文書を出したことでしょう。たまりかね、新潟県の工業技術総合研究所に助けを求めました。大学の先生まで巻き込んで原因究明が始まりました。そして分かった結果が「材料」でした。グラインダーで削ってみたところ、「SKS8」材と比べて明らかに火花の出方が少ないのです。すなわちヤスリ材に最も重要な炭素(C)量が不足していたことが判明しました。炭素が少ない材料は焼き入れ時の加熱から冷却までのスピードが要。持ち手のあるヤスリは扱いやすいため瞬時の冷却が可能です。しかし持ち手のない特殊型は冷却用の治具に持ち替えるまでのまごつきが時間のロスとなり、それが焼き入れ失敗の原因になっていたのです。反対に一般のハイカーボンの材料は冷却までに少しの「間」(蒸らしとも言います)が必要であるため、新人職人の時間ロスが逆に効を奏していたという訳です。「材料」がヤスリの最後の工程の焼き入れの結果をここまで如実に左右していたことに誰も考えが及びませんでした。昔の職人であったら経験や勘で解決していただろうことに1年もの月日を要しましたが、そこには明らかな「科学的根拠」がありました。こんなちっぽけな町工場の職人の世界にも「科学」が必要な時代がきています。
因みに、欠品が続いたプラスチックヤスリは何とか適材を探し出しお客様の元へとお届け出来ましたが、4年経った今も品薄状態は変わりありません。
子供の頃から「どんなにすばらしいアイディアがあっても知識を持たなければそれを生かすことが出来ない。だから勉強せよ!」と言われ続けてきた私は、この歳になってようやくそのことが実感出来ました。
その後も、材料探しは変わらず難航しています。工場見学のお客様が来られると、それまではヤスリ造りの柱は「目立てと焼き入れ」と話してきましたが、今は「材料と目立てと焼き入れ」の3本柱を強調しています。
しかし、3本柱以外の他の工程にもそれぞれ大きな落とし穴が実は待っていたのです。その話はまた次に続きます。
What's New?のコーナーなのに、Newsが見つかりません! かといって決して平穏というわけでもないのです。小さなトラブルや悩みは相変わらず尽きません。今日も朝会で一席ぶってしまいました!! でもやっぱりNewsは見つけられませんでした。
さてどうしようか・・・と無い知恵を絞り、苦肉の策ではありますが1つ妙案が浮かびました。「ヤスリが出来るまで」の工程をこれからしばらくシリーズで書いてみることにしようと思います。ヤスリに関しては全くの門外漢の私がこの世界に入って8年。考えてみたらヤスリが出来るまでの全工程を自分でもしっかりと把握できているのか?と聞かれたら、いささか自信がありません。私自身のこの8年間の「自己評価」のつもりで書きたいと思います。ヤスリの専門家に叱られないように、巷でよく聞く「炎上」とやらにならないように少し真面目にシリーズとしてまとめてみます。ただし、正当な工法と違っていたとしても、あくまでも「柄沢ヤスリ」のやり方ですのでご理解下さい。
では、まずヤスリ製造の全工程を記しておきましょう。
【ヤスリ製造の工程】
①材料切断→②火造り(鍛造成型)→③焼きなまし→④歪み取り→⑤削り→⑥双手ヤスリ掛け→⑦目立て→⑧味噌付け→⑨焼き入れ→⑩表面仕上げ
日本の伝統的なヤスリの製法には独特な特徴があります。工場見学に来られた方に説明すると皆さん一様に驚かれます。次回から1つずつ詳しくお話しすることにいたしましょう。どうぞご期待下さい!!(その前に私も猛勉強しておかなければ・・・)
今回は柄沢ヤスリの話題から少し離れます。お聞き頂けますか?
柄沢ヤスリに入社するまで、私は新潟県の高校の教員を勤めていました。先日、今から38年前私が初めて教壇に立ったときの山の高校の教え子が訊ねてくれました。その一月ほど前「覚えていますか?」と電話をくれたとき、彼のクラス担任をしたわけでもなくただ教科を教えただけの当時1年生の男の子でしたが、不思議と彼の顔がすぐに浮かびました。サラサラ髪の眼鏡を掛けたちょっとニヒルな美少年でしたから。その彼が仕事の都合で隣県に越すことになったのでと会いに来てくれたのです。人生の中のほんの一瞬すれ違っただけなのに、38年も経って再会できるなんて信じられない思いでした。もっとも今はSNSやらFacebookやらで知らぬ内に情報が拡散していますから、「高校の時のあの変な先生がこんなことしてるよ」なんて噂は誰でも知ることが出来るのでしょうね。スマホも持たない私には想像もつかない世界です。地元のお蕎麦を携えて来てくれた彼は昔の面影そのまま。卒業後の30数年間の出来事や、授業で私がこんなことを言ったなんて思い出すだけでも気恥ずかしい話や、同級生の消息や、話は尽きませんでした。
山の高校に新採用で赴任したことは、私の人生観を大きく変えました。町場の工場地帯で育った私には、新任地は環境から生活習慣から全てが驚きの連続でした。
着任した年の冬、雪が5m積もりました。外に続く道路は全て遮断され、新聞も来なければ生鮮食料も届かなくなりました。来る日も来る日も雪は止むことを知らずまるで空に穴があいたのでは、と容赦なく雪を落とし続ける天を恨みました。10日間臨時休校だった学校を再開したとき、寮や下宿や親戚の家に緊急に寄宿することになった生徒達は雪道を半日以上も歩いてやってくるのです。朝から歩いてやっと近くまでたどり着いたと、夜8時を過ぎて寄ってくれた女生徒を同僚と2人で下宿先まで送ることにしました。街灯が頭の上ではなく足元を照らす(ほど雪が積もった)雪原の中の1本道を3人といつの間にか後ろを付いてきた1匹の犬が1列になって歩く姿はまさに「北越雪譜」の世界でした。今回訊ねてくれた彼は隣町から通っていましたので、まだ開通前だった長く暗いトンネルを1里以上も歩いて通学したとか。共通1次試験を受験する3年生は担任引率でキャタピラー付きの「雪上車」で受験場に向かいました。
冬が来る前ベテランの先生が生徒に掛ける言葉は「父ちゃん、出稼ぎに行ったかい?」そんなプライベートなことを皆の前で言っても良いのかと新人の私は戸惑ったものでしたが、担任をしたときクラスの女の子が大きな声で「明日父ちゃんが出稼ぎに行くから、クラスで1番になった成績表を見せたい。先生早く成績表作って!」明日出かける父ちゃんを喜ばせたい彼女の気持ちに胸打たれました。熱い想いを持っていた新人時代でしたから、生徒との(闘いも含めた)触れ合いや人情の機微や山の四季の移ろいや自然との協調の仕方や・・・その全てが、粗野で鈍感だった私の感受性を少しは真っ当に育んでくれた気がします。
今回来てくれた彼からは連絡先さえ聞きませんでした。いつかまたこんな風に再会できるでしょうか?新しい地でどうか幸せにと願うばかりです。
さて、懐かしい人との再会でしばし感傷に浸ったことでようやく気づきました。今の私は仕事に社会に対人関係に「頭カッカ!!」と日々怒ってばかりであったことに。病院でけんかをして「私にも病院を選ぶ権利はある」と踵を返したときは医師を慌てさせました。「何でこうなるのか」と毎日机を叩いては不満の嵐でした。このコーナーを復活して、少し落ち着いて会社の日常や自分を振り返る機会を得て今反省しきりです。こうやって出来事を書くだけでも意味があったことを再認識しています。
以上、柄沢ヤスリとは全く関係のない話に長々とお付き合い頂き誠にありがとうございました。
いささか旧聞に属することで恐縮ですが、4月の慰労会のお話しをさせてください。
2月、燕市のデザインコンペで「初爪 HATSUME」がグランプリを受賞しました。
4年前、初めて我が社のヤスリにデザイン性を取り入れて作った爪ヤスリ・踵ヤスリ「シャイニーシリーズ」がにいがた産業創造機構のデザインコンペで大賞を受賞しました。リーマンショックの影響がまだ残っており経営的にも楽な時期ではありませんでしたが、あまりに嬉しくて受賞までにお世話になった全ての方をご招待し岩室温泉で大祝賀会を開きました。こんなに嬉しいことはもう二度とないだろうと思ったので賞金はすべて一晩で”ぱぁーっと”使い切りました!!来て頂いたお客様に「また来年もやってくれ」と所望されましたが、「次に大賞を取ったらね」と答えたきりずっと約束が果たせずにいたことを心苦しく思っていました。
そして今年、満を持して応募した「初爪」がついにグランプリを取ったのです。長いようであっという間の4年でした。(うん?どこかで聞いたことがあるようなセリフ・・・)
4月13日 長岡の奥座敷「蓬平温泉」にて、総勢15名での慰労会を開催しました。前回は「祝賀会」今回は「慰労会」。色々訳があります。前回の誉を知らない社員が増えたので、私の舞い上がらんばかりの喜びが残念ながら伝わらなかったようです。祝賀会をしますと伝えたところ、「遠いから嫌だ」「人がいると眠れない」「接待させられるのが嫌だ」「その日は都合がある」・・・・・・・頭に来た私は「ええい、祝賀会なんかやめちまえ!!代わりにお世話になった方々を私が慰労する。文句あっかーーーー!!!!」 と言うことで、社を上げての「祝賀会」のはずが、岡部さん・Eさん・私の”3人官女”と前回も参加してくれたMちゃんとのたったの4人だけで、初爪に関わってくださった皆様を「慰労」する会になってしまったという顛末でした。
お客様は、この3年苦労を分かち合った同士達。受賞の栄誉を皆さん自分のことのよう喜んでくださいました。美味しい料理に舌鼓を打ち、美酒に酔い、喜びを分かち合い、苦労話にうなずき合い、極上の時間を持つことが出来ました。
その中で心に残ったエピソードを一つご披露いたしましょう。2次会でカラオケ会場に行ったときのことです。すでに先客の”お姉さま方”のグループがかなり盛り上がっていました。歌う歌う、踊る踊る、そのパワーに圧倒されそうで我がグループはかなり遠慮気味でした。そのうち、お姉さま方に誘われて我らがメンバーも踊り始めました。踊りの初心者には手を繋いで「イチ・ニィ・サン・シィ」と手ほどきです。誰かがカラオケでつっかえると、お姉さま方全員で唱和して助け船。この活力と洗練された踊りはどこから来るのか、と聞けば実はダンスの世界大会にも出場するグループの皆様とのこと。道理で並みの素人とは鍛え方が違うわけです。慰労会接待役の我々女性4名は引っ込み思案な越後人。ずっと壁の花でしたが、最後に全員で輪になって「学生時代」を大合唱をしたときにはしっかり輪の中で踊っていました。70歳のリーダー率いるお姉さま方(年齢層も幅広いようにお見受けしました)は「この歌で締めるのが私達の恒例なの」と引き際も爽やかに去って行かれました。ストーム(嵐)でもなくブリーズ(そよ風)でもなく、良い意味でつむじ風か空っ風とでも言えましょうか。皆の心に何とも爽やかでパワフルな風を吹き込んでくださいました。朝ご飯の会場でも颯爽と挨拶を交わされ、どこまでも気持ちの良いお姉さま方との出会いでした。
岡部さんを始め、やはり一流を極めた方々は何かが違う。学びは身近なところにも沢山あることを知った蓬平温泉でした。
このコーナーを再開するまで2年余り、ご報告したいことは山ほどありました。国の補助金で大きな機械が入ったこと、そのために工場を大々的にリフォームしたこと、新商品の開発が始まったこと、その新商品がデザインコンペでグランプリを受賞したこと・・・でも書けなかったその訳は・・・ホームページの管理システムが変わって「使い方が分からなかった!」ただそれだけのことでした。本当にお恥ずかしい限りです。入社して8年、この2年が最も多忙であったことも手伝って、マニュアルもない管理システムを自力で試行錯誤する時間さえも惜しかったのです。まだスマホも持っていない私は、完全に時代から取り残されそうです。
さて、そんな2年で一番大きな変化は社員の若返りと言えましょう。5人の社員を新たに迎え、そのうち4人が20代・30代でした。この人手不足の時代に有り難いことです。8年前入社した時の私はちょうど真ん中くらいの年齢でしたが、今や上から3番目です。年齢的な世代交代は順調と言って良いかもしれません。しかし・・・肝心の「技術の伝承」がままならぬのです。ベテランの岡部さんは別格として、他の中堅職人が仕事を始めた15・6年前はひと世代前の職人達の世代交代が終わった頃、ちょうどヤスリ職人の端境期(はざかいき)でした。ですから今の中堅達は先輩に時間を掛けてじっくりと基本を習う猶予はありませんでした。中堅職人達は自分達の才覚で創意工夫し、努力し技術と腕を磨いてきました。でも、全工程を通してトータルでヤスリを見ることを教わっていないのです。例えば10近くの工程を経てやっと仕上がったヤスリが商品に出来るような代物ではなかった。どの工程に問題があるか誰も分からない。再度一から作り直して、また同じ失敗を繰り返し・・・。「ヤスリは奥が深い」とため息をつくことが近頃は多くなりました。最大の原因は15・6年前に一度技術の伝承が途切れたそのことに他ならないでしょう。先人達が健勝なうちにヤスリ業界の将来を見据えておけば今頃は、と悔やまれますが今さら嘆いてみても詮無いこと。まさに「後悔先に立たず」のお手本のようです。そのまま手をこまねいているわけにもいきませんから、公の補助金を有効利用して機械化できるところは機械化し、外部のベテラン職人を講師に招聘してヤスリのイロハを伝授して貰い、焼き入れの技術取得のため広島まで新人職人を長期派遣し、県の技術センターにはヤスリ製造の科学的裏付けの研究を依頼し・・・途切れた技術の空白を埋めるべく今出来ることを必死にやっています。
それにしても昔の職人はすごかったですね。学校で習ったわけでもなく、なぜこうなるのかと言う根拠を科学的に捉えていたわけでもなく、今見れば見事な製品を当たり前に作っていた。それが江戸時代から燕に脈々と伝えられてきたヤスリの技・伝統と言うものなのでしょうね。若い職人達の仕事ぶりを見るにつけ、今ここで伝統の技術を途絶えさせてはならぬとつくづく思うこのごろです。
ようやく新爪ヤスリ ”初爪 HATSUME” を皆様のお手元にお届けできます。
開発のきっかけは大学病院のリハビリの専門医からの提案でした。彼は私が高校教員時代の教え子。学会で新潟に来たからと訊ねてくれました。担当する片マヒの患者さんが爪の手入れをするのに苦労しているとのこと。カーブの付いた爪ヤスリ「シャイニー」を元に新しい爪ヤスリが作れないかとの提案でした。今からちょうど3年前のことです。彼自身も事故で怪我を負った経験があるため、患者さんに寄り添う気持ちがひしひしと伝わってきました。ただ単にカーブが付いているから便利と謳ってきた「シャイニー」でしたが、現場の実状を聞かされまさに「目からウロコ」でした。片マヒの患者さんは健常側の手の爪が自分では削れないのです。不覚にもそのことに全く気づきませんでした。早速開発に乗り出すことを約束しました。
新商品の開発は弊社の力だけではとても手に負えません。燕市の新商品開発補助金事業に応募し、プロダクトデザイナーさんの紹介を受け、協力会社を探し、東京まで出向いて発案者とデザイナーと3人で企画会議を何度も持ち・・・着々と準備は進みました。提案があってから2年半が経った昨年10月、とうとう新爪ヤスリのサンプルが完成しました。新爪ヤスリの命名にも思いを込めました。新潟の方言の「器用な・器用な人」を意味する「はつめ」にかけて「初爪」と名付けました。1月7日にその年初めての爪切りをすると「健康になる」「幸せになる」という古くからの言い伝えも名前の由来になっています。
しかし”無”から”有”を生み出すことは、予想もしない困難が付きまとうものです。台座の金型に不備が生じ、サンプル完成から商品になるまでなんと7ヶ月も掛かってしまったのです。「初爪」の由来からどうしても新春に発売をしたかったので、とりあえずサンプル型で初売り分だけ間に合わせました。利益など度外視です。お陰様で大好評だったのですが、その後がいけません。新聞やテレビでも取り上げて頂き、お客様からのお問い合わせや予約が殺到しましたが金型の目途が立たず、矢のような催促に頭を抱える日々が続きました。今振り返っても7ヶ月間何が現場で起きていたのかさっぱり分かりません。ただ、時間と労力を費やした分、製品への妥協をしなかった分、手前味噌ですが会心のヤスリになりました。 絹の様に細かな目を持ち、どの方向にも爪を削れることが自慢です。ヤスリの絶妙なカーブは医療現場の意見で決まりました。手のひらにも収まるシリコンのデザインもかわいらしいと評判です。これから、どんな方達が使ってくださるのか、どんな評価を頂けるのか、作り手としてとても楽しみにしています。本当にお待たせして申し訳ございませんでした。
どうか皆様「初爪 HATSUME」を宜しくお願いいたします!!
我が社の”看板娘”岡部キンさんが5月4日めでたく95歳を迎えました。いつも言うことですが、どこから見てもその歳を感じさせない若々しさです。彼女が皆様に注目頂くようになって5年、95歳の今も仕事への姿勢や生活ぶりは全く変わりません。誰よりも集中して仕事をし、家に戻ってゆっくり疲れを取り、一休みした後「さて今晩の献立は?」と家事に励み、時にはご家族との口げんかを楽しみながら、彼女の充実した1日は過ぎるのです。どうやったらどうやったらこんな風に健やかに歳を重ねることができるのか?いつも羨ましく彼女を見ています。岡部さんはまず強い意志の持ち主、信念の人です。また、好奇心の塊、政治や社会の出来事はもちろん森羅万象何にでも関心を持っています。お料理自慢も元気の秘訣でしょうか。彼女が社員に振る舞ってくれる季節ごとの漬け物は絶品。外で美味しい物に出会うとすぐにそれを家でアレンジしてみると聞きます。彼女のこの好奇心と想像力と応用力が若さと元気へと繋がっていることは間違いないでしょう。 先日工場見学に来られた若い女性に、岡部さんが突然「あなたも目立てをしてみますか?」と誘ってくれました。戸惑う女性を皆でやや強引に目立て機械の前に座らせ、岡部さんの指南が始まりました。女性はちょっと触ってみるだけのつもりだったようですが、岡部さんの指導は妥協を許しません。「ダメダメ!右足をしっかり踏んで。左手で押さえて!!」「はいもう1本やってみて!!!」見学だけの予定だった女性はしっかり自分用のヤスリを仕上げてお土産として持ち帰りました。たった10分ほどでしたが岡部さんの厳しくも的確な指導に皆舌を巻きました。 こんな風に岡部さんが元気で頑張ってくれることが会社の活力にもなっています。岡部さん、これからも末長ーーーーーく宜しくお願いいたします!!
昨年は多くの皆様にお世話になりました。本当にありがとうございました。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
このコーナーへの登場は何と9ヶ月ぶりです。昨年の4月に「必ずこの場で報告します」と固く誓ったお約束、やはり破ってしまいました。全く持って面目ありません。6年前までの教員時代は常に時間に追い立てられ気持ちの余裕が持てませんでしたが、今は気持ちはずっと楽になったのに「物理的に全く時間が足りない」状態が続いています。今年は時間をもっと上手に使って何事もテキパキこなせる人間になることを年頭の目標に掲げたいと思います。
さて、皆様にご報告しなかった昨年の主な出来事をまとめて書いてみます。何しろ9ヶ月分です。少し長くなりますがおつき合いください。
読売テレビ「遠くへ行きたい」の撮影で俳優の前田吟さんが訪ねてくださいました。テレビで見る前田さんと全く同じで自然体でとてもすてきな方でした。「ギン(前田さん)がキンさん(岡部さん)に会いに来ました」と彼のジョークから出会いは始まりましたがカメラの前で緊張していた私はすぐに気の利いた言葉を返すことができず、その場面はまぁボツだったでしょうね。記念に社員一同と写真を撮っていただきましたが、さすがは俳優さん。社員全員が緊張のあまりこわばってさらにピンぼけな顔で映っている中で、一人光を放っていらっしゃいました。プロと素人の差がここまではっきりと出た『出来事』を私は他に知りません。とてもスムーズに取材が行われたので特に語るべきエピソードもありませんでした・・いえいえ、ありました一つおもしろいことが。前田さんが事務所に入ってくる最初のシーンを撮り始めたところで、なんと我らがEさんが大きな声で電話を始めました。(もともと燕人は皆声がデカいのです)撮影が終わって前田さんが済まなそうに一言。「この撮影は"やらせ"は決してしないのですが、今の大きな声入ってます?まずいですよね・・・?では撮り直しますか」さすがはEさん、やってくれました。
島根大学医学部の先生が学会の途中で訪ねてくれました。私のかつての教え子です。大学病院のリハビリテーション科の専門医を努める彼から大きな課題をもらいました。
ハンデキャップを持った方が使える爪ヤスリの開発です。半年間静かに構想を温めてきましたが、この場を借りて宣言いたします。「新しい爪ヤスリ必ず完成させます!!」
工場の2階をリフォームいたしました。社員が増えて作業場所が足りなくなったためです。
昭和42年に今の場所に工場を移転して以来、新年会の会場になったり社員の休憩場所になったりした18畳の(最後は只の物置と化していた)和室が、フローリングの作業場に生まれ変わりました。38年分の思い出の品々(私以外の社員は皆それを"ゴミ"と呼びます)を思い切って4tトラック2台分処分しました。「仕事の効率向上は環境にあり!!」を証明してくれた、我が社にとってはまさに平成の大改革でした
「エクセレントシリーズ」初披露の場を与えていただき私達はかえって大感激でした。
さすがに老舗のデパート、造りも空気もゆったりと重厚でした。
日経新聞新潟版「企業 次の一手」に我が社が掲載されました。
長岡に講演に来ていらしていたジャパネットタカダのあの高田明会長が、記事を読んで来場者の皆さんに「これぞ中小企業のあり方!」と紹介してくださったそうです。
昨年もっとも忙しい月でした。
・10月2日(金) 新潟信用保証協会様のご推薦を頂き、
「江戸・TOKYO 技とテクノの融合展2015」 (於 東京国際フォーラム)
に出展いたしました。アテンドは岡部さん・Eさん・目立て職人Iさんとの4人です。
新商品のヤスリ「誉シリーズ」を中心に展示いたしましたが、ヤスリのブースが他にな かったせいか大盛況でした。お客様の反応を初めて目の当たりにしたIさん、 目立て職人としての自信を深めたようでした。
・10月3日(土)「燕三条工場の祭典」
たった1日の参加でしたが、約70名のお客様に工場を見ていただきました。前日の東京での反響をうけて、急遽ヤスリのお試しコーナーを設けました。もくろみ通りこちらも大好評。説明する社員達の目の輝きも違いました。お客様の中に毎日新聞論説委員の中村様がいらして、後日コラム「水説」にとても温かな筆致で岡部さんのことを書いてくださいました。
・10月3日(土) 燕市企画番組 NST「燕の匠 受け継がれる職人の技術」出演
燕の3つの伝統産業を紹介していました。いずれも後継者不足は深刻です。問題点や課題をまとめ、よく編集されたいい番組でした。
しかし我が社の社員達、工場の祭典と重なったせいか、岡部さん以外「誰も見ていない!録画していない!!」当事者の社員にこそぜひ見て欲しい内容でした。
・10月25日(木)・26日(金) 「燕三条ものつくりメッセ」出展
今年で2回目の開催となる見本市です。県内外から200社以上の企業が出展し見所満載の見本市でした。我が社は2日間13名の社員全員が交代でアテンドしました。テレビのニュースに存在感抜群のEさん映ってましたよ!!
工場見学のお客様を大勢お迎えしました。考えてみれば地味な「ヤスリ」を製作する現場などよほどの事がなければ見る機会などないのかも知れませんね。皆様小さな工場の古い機械や職人達の仕事ぶりをを熱心に見てくださり私達 の方がかえってうれしくなりました。
年頭のご挨拶をして以来のご無沙汰です。雪の降りしきる頃に、梅のほころぶ頃に、桜が満開の頃に、書こう書こうと思いつつとうとう桜の季節さえ過ぎてしまいました。
今年の冬は私事ながら母が大腿骨を折って長岡の病院に入院し、仕事の後毎日片道1時間の道のりを通い続けました。幸い3月末に退院してきましたが、仕事を充実させるためにはまず私生活の安定がもっとも重要であることを実感した2ヶ月でもありました。会社にはできるだけ迷惑を掛けないよう努めたつもりではありますが、心に屈託を抱えていてはきっと仕事は穴だらけだった事でしょう。周囲のフォローに感謝です。
そのためこの“what's new"もしばらくお休みさせていただきました。ご容赦ください。
さて、今年の燕の冬は穏やかでした。昨年12月のNHKの生放送の日は、皮肉なことに例年になく早い大雪に見舞われ、雪除けに大わらわでした。厳冬を覚悟しましたが、その後雪らしい雪は降らず冬の苦労が少ない年になりました。その分ドカ雪となった山沿いの皆様には遅ればせながらお見舞い申し上げます。
苦労の少なかった冬と連動してか、この3ヶ月の柄沢ヤスリも特に大きな出来事もなく穏やかに過ぎました。その中でいくつかの出来事をご紹介いたしましょう。
まず2月16日から全国の郵便局に一斉に置かれた「JPセレクト(三越)」のカタログに爪ヤスリと踵ヤスリが掲載されました。もちろん紙面の中心は岡部さんです。未だに「本当にあの方の作ったヤスリですか?」「他の人の作ったヤスリではダメです!!岡部さんの作ったヤスリを送って欲しいのですが」と問い合わせが来ます。岡部さんはますます元気に爪ヤスリの目立てに励んでいます。皆さんご安心ください。
3月には昨年大賞を受賞した「IDSデザインコンペ」に新商品の「誉シリーズ」を出品しました。10年近く構想を温め、満を持して発表した商品でしたが、残念ながら受賞はできませんでした。デザイン性よりは機能を誇る商品ですので、発表の場を間違えたのかも知れません。「また賞を取ったらネ」と大宴会を約束していた皆様、面目ない・・・・。
4月4日(土)、新宿と新潟の伊勢丹での実演販売に行って来ました。新宿は私メが、新潟はEさんと岡部さんが担当、と二手に分かれての行動です。まだまだではありますが、少しずつ商品の良さを認めていただけるようになってきているのかなと実感できた1日でした。
そして、4月21日(火)読売テレビの「遠くへ行きたい」と言う番組の撮影で、何と前田吟さんが来社されます。もちろん今回も主役は岡部さんですが、いつもなら岡部さんに負担がないように・・・とまず彼女の意向を聞く私がこの度は即答いたしました。やはり私はミーハーでした。岡部さん「泉ピン子さんに頭を押さえられていた旦那さんの前田さんでしょ?もっとシャンとすればいいのに」。いえいえそれはマッサンの中の役柄の前田さんですよ、岡部さん。なんだかまたおもしろいことが起きそうな気がいたしますが、撮影後記を必ず書くことをここにお約束いたします。
4月になっても晴れ渡る日が少なく、灰色の空の元では桜を愛でる気分も半減の新潟の春でしたが、それでも確実に季節は移ろっています。新年度も気持ちを新たにがんばります!!(R記)
皆様明けましておめでとうございます。昨年はご愛顧ありがとうございました。この1年は3月のIDS大賞に始まり、12月17日の「NHK昼ブラ」出演まで、職人集団の私達にとっては「めくるめく1年」でした。そして何よりそのおかげで、かつて燕の主幹産業の1つであったヤスリ、越後燕のヤスリの存在を日本全国の方々に知っていただけたことが最上の喜びでした。
さて、恒例のこの1ヶ月の出来事をお聞きください。
12月17日 先にも書いた「NHK昼ブラ」に生出演です。たった22分の放送でしたが、前日から総勢30名以上のスタッフが準備にスタンバイです。生放送は機材の規模も関わるスタッフの数も録画とは全く違うことを初めて知りました。運の悪いことに前日から大寒波がやってきて、放送車やスタッフの車を駐車する場所の確保ため社員総出で雪堀りまでしました。当日は寒風吹きすさぶ天候の中、扉は開け放され、ヒーターも消えてしまい、ブレーカーも落ち・・・ひたすら寒かったことがなぜか一番思い出されます。皆様、これから生放送をご覧になったとき、どうか画面の後ろ側にいる方達にほんの少しだけ思いを馳せてくださいませ。テレビの見方がちょっとだけ違ってくるかも知れません。
そして番組の見所はやはり岡部さんでした。友人が「彼女の存在は圧倒的だった」とメールをくれました。
その他の部分は、「3人官女」で何回も練習したはずなのに全く成果なし!!なんだかバラエティ系になってしまったのは、さあ誰のせいでしょう・・・。佐藤俊吉アナウンサーとはしのえみさんのフォローはさすがでした。寒かったけれど、すてきなお二人とご一緒できてホカホカした気持ちになりました。関わってくださったすべての皆様、テレビをご覧くださった皆様、どうもお疲れさまでした!!
次は、12月26日から31日まで「銀座三越」に出店したお話です。始めて過ごした年の瀬の東京。景気も上向いているのでしょうか。デパートは年末のせいもあり活気がありました。28日は何と岡部さんもアテンドしたのです。私達は企業としての出店でしたので緊張の中にも少し気楽な部分があったことは否めません。しかし、華やかなデパートのバックヤードは「厳しい!!」の一言でした。私達は6日間だけのお手伝いのつもりでしたが、お客様から見たら私達だってデパートの一員です。何の心得も持たずアテンドしたことを大いに反省しました。ただ張り切っただけで、時間や体力の配分や加減の仕方を知らず、とうとうお正月はダウンしてしまいました。
そんな中で岡部さんの接客は見事でした。お客様の手を取って、にこやかに穏やかに的確に爪ヤスリの使い方を説明します。おまけに昼食時間以外、ほとんど休みも取らず。やはりただ者ではありません、我らが岡部さん!!「お疲れ様」とアテンド3人組で入ったレストラン、ワインを傾けつつ岡部さんしっかりとフレンチを平らげました。
「テレビ」と「デパート」、どちらも普段と逆の立場を経験させてもらい良い勉強になりました。
・・・でも、小さな声でちょっと本音を言えば、しばらくはいいかな、両方とも(ゴメンナサイ)・・・・・
(R記)
11月29日(土)モノづくりで有名な大田区の「おおたオープンファクトリー」に行って来ました。我が燕三条もモノつくりの町ですが、金属加工技術では日本有数の町大田を一度は覗いてみたいとずっと憧れていました。
蒲田から多摩川線に乗り換えて2つ目の駅、武蔵新田が 見学のスタート地点です。最初に見たのが3Dプリンターと食品サンプルのほこたて対決。立体なのになぜプリンター?間近で見て理由が分かりました。まるでCTの画像のようなデーターが次から次へと立体的にプリントされていきます。なるほど!
そこでできたサツマイモとよく合羽橋で見かける樹脂の食品サンプルとの対決です。テレビや雑誌で見た樹脂の天ぷらやレタスが目の前で作られる様はまさに芸術でした。3Dプリンターもすごいけれどアナログな技もすごすぎる。最初から興奮したスタートでした。生憎の雨風でしたので頂いた地図は雨に濡れてボロボロ、公開工場の案内も少々わかりにくく(燕三条工場の祭典のシンボル「ピンクのシマシマ」最初は抵抗がありましたが案外目立っていいのかも)文句タラタラと出発しましたが、見学工場が増えるにつれもう天候などどうでも良くなってしまいました。それぞれの工場が独自の技術を誇っていることを目の当たりにしました。さらに機械がすごい。よくテレビで紹介されるというある会社では、3千万円、5千万円の機械が何十台も導入されていると聞きました。またある工場ではこんな説明を受けました。「最新のコンピューター制御の機械を使いこなす僕たちは、職人と言うよりオペレーターです。でもアナログの昔からの技術を知らなければ新しい機械も使いこなせない」。原子力や自動車やロケットや人工関節や人工心臓や野球場の巨大な照明や・・・日本の高度な技術の中の重要な部分の製造を自分が担っている、という自信と自負と責任がどの工場からもひしひしと伝わってきました。
我が社の仕事場を公開した時でさえ「おもしろすぎる」と言ってくれた若者がいましたが、大田区さらに「すごすぎる!!」今回すべての工場を回るには時間と自分の知識が足りなすぎました。もっと勉強して来年は社員も連れ是非もう一度見せてもらいに行きたいと誓った1日でした。(R記)
11月もあと2日で終わりです。昨年11月15日の新商品のお披露目会から始まった「岡部さんフィーバー」、10月のTBS「未来遺産」後の騒動もようやく収束し、静かな11月でした。
そんな中、2つほどうれしいことがありました。
1つ目は、昨日燕東小学校の3年生8名の皆さんが社会見学で工場を訪ねてくれたこと。小さなお客様にどのように工場を見せれば良いのか、私達も予習して準備です。説明を始めたら早速欠伸をする子がいて、説明がまずかったかと慌てました。後で聞いたら昨夜夜更かしをしてしまって眠かったとのこと。少し安心しました。皆さん一生懸命に質問したり学んだことを書き取ったり。最後の質問は可愛らしくも鋭いものでした。「ベテランの職人さんにお聞きします。どうしてその歳まで仕事を続けられるのですか?」岡部さん:「やはり仕事が好きだからですかね」そこで私がまたよけいな一言を・・・「岡部さんは何でも沢山食べるから、身体も丈夫で頑張れるんですよ」すると子供達「僕は野菜が嫌いです。特にピーマン」「僕んちは農家だからお父さんの作った野菜は大好き。お米も」「僕はゴーヤが嫌い」「私はゴーヤは食べられる」「僕のお父さんは40歳」「僕んちは30◯歳」・・・話がどんどん別な方に広がってしまいました。そんな可愛い子供達との交流は、日々の仕事や生活に疲れ気味の大人にとって一服の清涼剤でした。
2つ目は、1通のメールから届きました。12月1日発売の新商品「誉」のご注文を頂戴しました。お返事を出したらまた返信を頂き、元チェリストでいらして今は弦楽器店のご主人と判明。毎年1回イタリアのクレモナに弦楽器の買い付けに出かけられるそうです。イタリアを始めとして弦楽器の製作には日本製の刃物とヤスリが重宝がられ、特にクレモナでは我が社のプラスチックヤスリが有名で誰もが使ってくださっているとのこと。さらに、来日したイタリア人製作家と「柄沢ヤスリのプラスチックヤスリ」を求めて東京中を探し回ったけれど見つからず、後でわざわざイタリアに送ることになったこと・・・etcが記されていました。
クレモナは言わずと知れた弦楽器の聖地。かのアマティやストラディバリウスを産んだ町です。なんでも4km四方の市街地に250軒の楽器工房があり1000人以上製作家がいるのだそうです。(残念ながら私のチェロはドイツ製でした)
これまでも度々弦楽器に関わる方々からお問い合わせを頂いていました。その度に弦楽器好きの私は誇らしくうれしかったものです。それがとうとうクレモナですよ!あの有名な町の、名器を作る方々が、我が社のヤスリを選んで使ってくださっている。何と言うことでしょう!!「ワォ、ファンタスチック、グレート、ブラボー、万歳!!!」思いつく限りの言葉で快哉を叫びました。
プラスチックヤスリは元々先代が地場産業のプラスチックのバリを取るために開発したヤスリです。工場から手放した後は、どんな目的で、どのような方が、どんな風に使ってくださっているか、これまで知る由もありませんでした。
先代の蒔いた種が知らぬうちに芽を出していたこと、地道にヤスリを作り続けて来たことや職人達の技術が異国の地で静かに認められていたこと・・・1通のメールから教えられました。この仕事に就いて4年半、始めてうれし涙がこぼれました。
社員にも早速朝会でこの喜びを報告しました。そしてこの柄沢ヤスリの伝統の火を守り続けてくれている社員達にもただ感謝です。(R記)
10月15日(水)TBS「テレビ未来遺産~~世界が驚く日本の職人」の放映後、岡部さんの爪ヤスリが大反響を頂戴いたしました。番組をごらん頂いた皆様、ヤスリをお買いあげくださった皆様誠にありがとうございました。あまりの反響に「シャイニー爪ヤスリ」はとうとう在庫が底を突いてしまいました。お待たせしているお客様申し訳ございません。もうしばらくお待ちくださいませ。
中には「本当に岡部さんが目を立てているのですか?」と言う質問があったと聞きましたが、ご安心ください。新商品の爪ヤスリはすべて岡部さんの手に成る製品です。新着情報を覗いていただくと、youtubeに工場の様子がアップしてあります。誰よりも集中して仕事をしている岡部さんの様子が見られます。まだ信じられない方々、是非ご覧ください。そして、この小さな工場を支えている職人集団の仕事ぶりも一緒に見ていただければうれしいことです。(R記)
すっかりご無沙汰いたしました。お盆明け以降、いくつものイベントを抱え、このコーナーにたどり着くことすらできませんでした。季節の変わり目のせいもあってか、「中耳炎」に「原因不明のアレルギー」に・・・とストレスは真正直に我が身を襲います。でもようやく少し落ち着きましたので、この2ヶ月の柄沢ヤスリを振り返ります。
まずは、9月3日~5日、“東京インターナショナルギフトショー秋"に出展のため東京ビッグサイトに行って来ました。アテンドは相も変わらずいつもの“三人官女" です。今回は岡部さん、2日目に一人で東京まで来ました。すごいでしょ!いろいろ不満の残った今年2月の出展(この話はまたいずれ・・・)も入れて、すでに3回目のギフトショーへの参加ですので3人とも慣れたものです。お客様への説明もスムーズ かつスマート(!!)にこなし、揃いのTシャツも好評で、沢山の収穫を得て帰って参りました。それにしても「ビッグサイト」は名前の通りなんとgiganticなのでしょうか。何度行っても迷います。疲れます。田舎者を実感します。
9月10日~17日、取材が続きました。1つ目の取材は「月刊niigata」。短い時間でしたが、記者の方はじっくりと話を聞いてくださって、的確でとても良い記事に仕上がりました。10月号にすでに掲載されています。
10日と17日はTBS「テレビ未来遺産」の取材でした。10月15日(水)放送の「世界が驚く日本の職人」に岡部さんが紹介されます。岡部さんの取材の受け方も、実に堂に入ったもの。全くの自然体で、カメラが回っているからといって彼女が仕事に向かう姿勢に特別はありません。頭が下がります。「だてに60年職人をやってるんじゃないよ!!」 と、いつもここで私が岡部さんに代わって胸を叩いて見せます。15日の放送を、皆様是非楽しみにしてください。
10月1・2日は地元燕三条地場産業振興センターで開催された見本市「ものつくりメッセ2014 inpact!燕三条!」に出展です。新商品「HOMARE~誉」のお披露目のための出展でしたので、準備からお客様への対応まで力を込めました。2日間、柄沢ヤスリの社員全員が交代で会場に出向きました。お陰様で評判は上々です。新商品第2弾!!として皆様に「HOMARE~誉」を覚えていただければ幸いです。
そして、2日間の興奮さめやらぬまま(少しの疲れを引きずりながら)、10月3日「工場(こうば)の祭典」 に突入です。
燕三条の59の参加工場が、自社をお客様に開放いたしました。我が社は1日だけの開放でしたが、バスが2台、予約なしのお客様も入れて総勢64名の方々があの狭苦しい、決してきれいとは言えない我が工場を熱心に見てくださいました。こんな小さな町工場が燕の伝統産業の片隅を支えていることを、その気概だけでも知っていただけたとしたらこれ以上うれしいことはありません。
・・・・・と言うわけで、これが柄沢ヤスリの行事盛り沢山な2ヶ月でした。フゥ~~、書いているだけで疲れがよみがえってきます。でも、これだけ大勢の皆様といっぺんにお会いできた事は社員一同幸せでした。気のせいか近頃の柄沢ヤスリの面々、なんだか顔つきも穏やかになった様な・・・・・(R記)
お盆休みの最終日、燕三条地場産業振興センターの「お盆フェア」の説明販売に行ってきました。
お盆前にあつらえた柄沢ヤスリそろいのTシャツに、靴は渋谷ヒカリエ出展時の反省を踏まえてスニーカーといういでたちで。アテンドはいつもの"三人官女"です。そこにいるだけで周囲の人々を魅了する岡部さん、その一声で周りが明るく元気になるEさん、少し気取っていたいワタクシメ。
そして今回は強力な助っ人が登場です。知人の薬局の店主Hさん。普段から彼女の情熱には圧倒されていましたが、まじかで見る彼女のパワーにさすがのEさんさえも気おされ気味でした。彼女の「お客様に良いものを売りたい!!」という熱意と誠意がきっと伝わったと思います。私ひとりだった午前中と比べて、売り場ががぜん活気づき売り上げも倍増でした。贈り物にしたいからとひとりで6個お買い上げのお客様も、はじめは迷っていらっしゃいましたがHさんの熱意あふれる解説で決断されました。普段販売や接客に縁のない私達も、彼女のお客様への対応は大変勉強になりました。
そんな風にワイワイガヤガヤと販売しているところ若い男性のお客様が来られました。一生懸命爪ヤスリを試していらっしゃいます。「これ、何歳くらいから使えますか?」の問いに「まあ。3歳くらいの幼稚園児なら・・・」と答えているところに「あっ、来ました」。そこにはママとおじいちゃん・おばあちゃんに囲まれた"4ヶ月の赤ちゃん"が。あまりのかわいらしさに皆であやしたり触ったり。赤ちゃんが自分の爪で顔を引っ掻いてしまうので、爪の手入れ道具を探していたとのこと。爪切りはまだ使えないし、保護用のガーゼの手袋では蒸れてしまうし、と困っていたのだそうです。さっそくその小さな壊れてしまいそうな指にそうっと爪ヤスリを当ててみました。ところが赤ちゃんは痛がるどころかくすぐったそうに笑っています。
若いパパとママは赤ちゃんのために「1本お買い上げ!!」
柄沢ヤスリ始まって以来の、一番小さなお客様でした。(R記)
皆様、聞いてください。柄沢ヤスリの屋根がテレビに映ってしまいました!!6月10日(火)BSジャパンの「空の上から日本を見てみよう+」という番組で、それも『(有)柄沢ヤスリ』とキャプション付きでした。ほんの一瞬ではありましたが確かに見覚えのある屋根が・・・。しかし社員の誰一人それを知りませんでした。次の日工事にやってきた左官屋さんの親方から「アクト(踵の燕弁)ヤスリが有名になったから柄沢ヤスリの屋根が映ってた」と聞き、皆のけ反るほどビックリ。早速ネットでバックナンバーを探して初めて見たという顛末でした。ここでまたそれを見たEさんの感想が振るっています。「屋根直しておいてイカッタねぇ(燕弁で良かったね)」
7月14日(月)BSN新潟放送のニュース番組「Nスタニイガタ」で柄沢ヤスリが紹介されました。わかりやすくヤスリの説明も入り、とても良い編集でした。本当は5~6分にまとまる予定だったそうですが、あまりに登場人物が個性的で(あの人とあの人とあの人のことですネ、きっと)7分も放映してくださいました。この取材で個人的にちょっとうれしいことがありました。何と私のチェロがニュースの冒頭に映ったのです。10年ぶりにケースから出した楽器でした。無彩色に近い工場と、あの美しい(!!)弦楽器が見事にマッチしたのは驚きでした。ヤスリと弦楽器の組み合わせを不思議に思われるでしょうが、実は弦楽器の製作に弊社の「プラスチックヤスリ」が適しているとのことで、かのクレモナの工房でも利用されているのです。主に触れられなくなって久しい楽器がこんな形で日の目を見ようとは。誰もいない工場で、久しぶりにチェロを弾いてみたくなりました。 (R記)
梅雨入りしたと言うのに、当地は西日本や東日本とは裏腹にカラカラ天気が続いています。雨が降ってもお湿り程度。そういえば何年か前の新潟市の統計では、1年でもっとも降水量が少ない月が6月でした。新潟の6月は体育祭のシーズンでもあるのが何よりの証拠です。逆に梅雨の後半にやってくることの多い集中豪雨が今から心配です。さて、ここのコーナー、5月はとうとうさぼってしまいました。遅ればせながら5月の出来事をいくつかしたためます。まず、5月4日“岡部さん91歳のお誕生日"を迎えました。肌もツヤツヤ、足取りも軽く、本当にますます若々しく元気です!!あやかりたいものです。5月10日、国の補助金で念願の新しい機械が入りました。職人が一人減り二人減りしていくなか、古いものを残しつつも新しい技術を導入することは待ったなしの状況でした。“新しい風“がようやく柄沢ヤスリにも吹きはじめました。5月17日から19日まで、渋谷ヒカリエに新商品を出展いたしました。ほんの30cm四方ほどのスペースでしたが、何人かのお客様に目を留めていただき出展した成果はありました。2日目にはEさんが、3日目には岡部さんと若手のKさんが一緒にアテンドいたしました。久しぶりにヒールを履いて都会に行ったEさん「東京はハイヒールなんかで行くところじゃネエ~~~!!」と足をさすりながらのたまわっていました。かくいう私も3日間立ちっぱなしで、ずっと(テーブルの陰でこっそりとではありますが)靴を脱いでおりました。やはり東京は・・・・・。6月1日号の燕市の広報に岡部さんが掲載されました。取材は連休明けでした。早い地区は5月末には各家庭に配布されますので、岡部さんと共に記事の内容や皆様の反応をワクワクしながら待ちました。期待に違わず良い記事でした。岡部さんは町でも皆さんの希望の☆星☆なのだそうです。ムベなるかな。気候と同じように穏やかな柄沢ヤスリの5月でした。 (R記)
梅が散り、桜は北上し、いつの間にか田圃には青々とした苗が植えられています。新潟の4月はいくつもの季節が一気に押し寄せ、あっという間に去っていきます。すっかりこのコーナーともご無沙汰しているうちに季節がいくつ通り過ぎたことでしょう。そんな4月もなんだか気忙しい月でした。我が社にとっては大きなイベントがいくつかあったのです。まず4月4日・5日に「IDS大賞受賞記念祝賀会」を某温泉ホテルで開催いたしました。総勢25名、この賞を受賞するまでにお世話になった皆様全員にご参加いただきました。もし賞がとれたら頂いた「賞金」は全部使い切るぞ!!とはじめから決めていましたので「大盤振る舞い」です。企画した立場ながら、とても気持ちの良い会でした。1次会・2次会・3次会・・・(さてその後は?)誰もが栄光の美酒に心地よく酔いしれ、「毎年やってくれ!」と何人もに所望されたほど。「まあ、来年も大賞が取れればね・・・・・」と心の中で呟く私でした。続いて4月19日(土)、燕三条「まちあるき」のイベントで、なんと「柄沢ヤスリを訪ねて」という企画が実施されました。定員は10名でしたが信じられないことに定員オーバーし、キャンセル待ちの方まで出たとか。参加された皆様本当に熱心にヤスリ造りの様子を見てくださいました。こんなちっぽけな町工場なのに、と私達の方がかえって感動を頂きました。80年の年季の入った目立機械を見た若者「超カッコいい!」「最高過ぎ!!」いやはや、その感想にこちらの方が逆に「超ビックリ!!!」フランスからのお客様もかなり興味津々のご様子でした。ものつくりに興味を持ってくださる方がお一人でも増えればありがたいことです。好評につきどうやら6月にも開催の予定のようです。よろしかったら覗いてください。以上が柄沢ヤスリの4月でした。気忙しかったですが会社にとっても思い出に残る春でした。 (R記)
本日TeNY(新潟放送)の“夕方一番"に生放送で弊社の作業風景を出していただきました。昨年から何度かテレビの取材はありましたが、生放送は初めてです。実際は4分間の放映でしたが、2時間以上前から準備に入り、綿密に打ち合わせをし、導線を何度も確認し・・・とスタッフさん達、本当に大変な作業をこなしていらっしゃいました。今まで何気なく見ていたテレビのワンシーンも、出来上がるまでにはこんな苦労があったのかと、改めて感じ入った事でした。本番までの作業を見ていると、作っている物の違いこそあれ、私達が製品を作り上げるのとなんら変わりないのですね。これからは、“物"に対峙する時、それができるまでの過程に少しだけ思いを馳せてみることにいたしましょう。そこから別な何かが見えてくるかもしれませんね。今日の案内役のEさん、半日ずっと打ち合わせやらリハーサルやらでさぞ疲れたことでしょう。しかし何と言っても「ヤスリの生き字引」の様な人ですから適任でした。名案内でしたよね。特に踵削りの実演は(?)は彼女の右に出る人はいません!!今日の放送でヤスリに興味を持ってくださる方がお一人でも増えたら幸いです。 (R記)
今年に入って2つのデザインコンペに応募しました。わが社は「技術」にはこれまでの積み重ねからある程度の自信は持っていました。しかしデザインとなると全くの初体験。期待と不安が相半ばしながら結果を待ちました。そして先週、一つ目のコンペの結果発表。見事に落選でした。10くらいの賞があるのにカスリもしません。正直言ってかなり落ち込みました。方向性が間違っていたのではと本気で悩みました。そしてようやく気を取り直した昨日、2つ目の発表でした。「わが社はデザインより機能性で生き残ろう!!」と現実を突きつけられた時の自分達への言い訳を用意しながら、気遅れ気味にそっと入った交流会の会場。「このたびは大賞おめでとうございます」「はぁ????????」本当に狐につままれたような一瞬でした。今日の表彰式が終わるまで、ずっと夢の中にいるような気分でしたが、審査員の先生方の(大賞といえども)厳しい批評を聞きながら、ようやく我に返りました。そう、わが社にとってはこれが最終目標ではなかったはずでした。結果云々より、大切に育ててきた新商品の集大成として、また背中を押してくださった方々への報告の意味を込めてずっと目指してきたコンクールだったのです。すっかり舞い上がって原点を忘れるところでした。危ない危ない・・・。幸運にもこんな大きなエールを頂きました。ほんの少しの自信と頂いた課題を胸に刻みつけ今日の日を新しい柄沢ヤスリのスタートといたします。皆様に心より感謝申し上げます。 (R記)
ほぼ1ヶ月ぶりの更新です。皆様良いお年をお迎えのこととお慶び申し上げます。このコーナーをスタートした時の「毎日更新」という誓いはすでに守れそうにありませんので、時間の許す時に不定期で書かせていただきます。今年もどうかよろしくお願いいたします。さて、新年に入っていくつか新しいことがありました。まず、1/8~1/14に新潟伊勢丹様で、新商品の販売をさせていただきました。11日(土)には岡部さんとEさんとの3人で何と実演販売をいたしました。あの、お洒落なデパートの2階の一等地(!!)で、お洒落か否かは(?)の3人が“売り子"をしたのです!売り場の雰囲気に似合っていたかどうかは皆様のご想像にお任せすることにして、おかげさまで大好評を頂きました。岡部さんの若さとEさんのパワーにお客様も引き込まれたようです。そして何よりも二人の自分達が作った製品への厚き思いが伝わったと確信いたしました。お買いあげくださった皆様、どうぞいつもお側においてご活用くださいませ。そして本日、新潟空港の売店に商品を納めに行って来ました。レイアウトも自分たちでと言うことで、少々緊張いたしましたが無事並べ終わり、飛行機発着の光景にも感激して帰って参りました。Eさん、並べ終わるやいなや、帰途につくビジネスマンに早速売り込み。巧みなセールスに、すぐに「2個お買いあげ」。誠にありがとうございました。こんな風にして、柄沢ヤスリの新しい年は始まっています。良い年になりそうな予感を大勢の皆様から頂戴した新年でした。 (R記)
今日は本格的な雪でした。昨夜は「雪降ろし」の雷がゴロゴロと鳴り響いていました。あの音を聞くといよいよくるべきものが来たか、と覚悟を決めるのは雪国に暮らす者達の習いです。以前仕事の関係で新潟県一(全国一)の豪雪地に暮らしたことがありました。前年降った5mの雪を思い出しながら、今日降るか明日降るかと不安に駆られて空を見上げていたら、高校生の女の子が「まだ雪の匂いがしないから大丈夫!」。周りにいた子達も一斉に「そうそう、まだ匂わない。夜お風呂に入って窓からの空気をくんくんと嗅ぐと雪の匂いするもんね」ーーー何と詩的な体感なのでしょうか。雪はただ辛いものと思っていたよそ者の私は、生まれたときからこの雪と共に暮らして来た人々の思いの一片を高校生から教わりました。その後豪雪地に暮らすこと10年、ついぞ「雪の匂い」嗅ぐことはできませんでした。初雪の季節になると思い出す一編の“ポエム"です。 (R記)
公私ともに目まぐるしい1週間でした。このコーナー、仕事の日は毎日更新するぞと誓ったのに、はじめから三日坊主の体です。お恥ずかしい限り。でもようやく落ち着きましたので再開いたします。本日は前からお約束していたEさん家の“のっぺ"の作り方ご紹介です。「のっぺ(燕では『おおびら』と呼ぶ)は各家庭で母親から受け継がれた味や材料があり、ウチの『おおびら』が一番だと誰もが自慢する程、こだわりがある料理。先週我が家の『おおびら』を記事に載せると予告したとのこと。さあ困った。じゃあ仕方がないから作るか、家に材料は?・・・。基本的な材料(各家庭で多少の違いがある):里芋・干し椎茸・干し貝柱・筍・蒟蒻・蓮根・とと豆(いくら)・かまぼこ(正月はここにユリ根と銀杏が入る)すべて拍子木切り。味は醤油ベースで干し貝柱と干し椎茸の戻し汁を使ってとと豆以外を一緒に煮て、煮上がったところで生のとと豆を入れてさっとひと混ぜ。さあ出来上がり。昨日頂いた里芋の皮をむき、塩と酒に漬けたとと豆、昨年購入した最後の貝柱、冷凍した筍・・・作りながら、夫は母親の味を思い出すのだろうかと考えた。一緒に生活を始めて40数年。私の味に慣らされたのか、文句を言えば後が怖いから黙っている方が得策と思っているのか、ウチの『おおびら』が一番旨いと言うが・・・・・。出来上がった『おおびら』と鮭の塩焼きで今夜は一足早い正月をしましょうか。(E記)」Eさん家の食卓やご主人との触れ合いが目に見えるようですね。どっちが怖いか?なんて、とても私の口からは・・・。
土・日曜はこのコーナーはお休みですが、今日はどうしても書きたいことがあって特別編です。先日の岡部さんのニュースを見たいと言う方が多いので、昨夜からDVDにダビングを始めました。11/28の全国放送を見直していたら、表題が「90歳で現役 やすりおばあさん」になっていました。ローカル放送ではなかったのに。岡部さんのことをおばあさんなんて思っている社員は一人もいません。岡部さんはずっと岡部さん、技術面でも精神面でも我が社の柱、重鎮なのです。以前警察の方が近所を巡回にこられて「今お婆さんが出ていきましたよ」。皆誰のことかわからず首を捻りましたが、時間的に彼女の帰る頃でしたのでようやく理解しました。早速その若い警官に説教しました。「あなたのお祖母さんでもないのに、女性を婆さん呼ばわりは失礼でしょ」と。前にも書いたように、岡部さんは自然体で、肝の据わった人です。こんなちっぽけなこと、全く気にも留めないでしょう。きっと憤慨しているのは「怒りんぼ」の私だけ。でも同じ日のNHKの7時台の特集は日野原先生でした。もし先生のことを「102歳のおじいさん先生」と書いたらどうなるのでしょう。取材をしてくださったNHKの若い記者の方は、とても岡部さんを理解し、編集内容も温かで皆感動し感謝しています。誰がどのような意図でどのように見出しを付けるのかはわからないけれど、でも「やすりおばあさん」は大切なものを傷つけられた気分です。NHKの見識を疑うゾ!!どなたかこの思いをNHKに届けて~~~叶わぬとわかっていても、この気持ちをどこかにぶつたくて、つい書いてしまいました。皆様はどう思われますか? (R記)
今日はお給料日でした。我が社、未だ「現金支給」なのです。少し前にいた社員が「今時こんな会社、あり得ない」と言っていましたが、誰が何を言おうとなんのその。明細書も手書き。「2万円分千円札にしておいてください」なんて注文にだって応じるのです。今回は50円合わなくて往生し、前回は一人分入力し忘れて大慌て、なんて事が時々(本当に時々ですヨ)ありますが今のところ無事お給料袋は渡っています。とは言いながら、5時を過ぎたのに今日は何で皆がニコニコして事務所にいるんだろう??すっかり渡すのを忘れてハッとするのは毎回のこと。でも誰一人「お給料をください」とは言い出さないのです。なんと奥ゆかしい社員達でしょうか。全員から文句がくるまでこの伝統消えそうもありません。アナログな柄沢ヤスリはこれからも続きます。(R記)